古書の書き込みより(1)
古書の書き込みより(1)
だいぶ前に端本で購入した漢籍国字解全書という戦前に早稲田大学出版部が刊行した叢書のうち、最初の持ち主(つまり新本として購入した方)の書き込みがいかにも書物を愛し、読書するのが好きという気持ちが実によく伝わるものです。これに感銘を受けて、ほかにもないかと探し回ったところ、6冊ほど見つけることができました。いずれも神田で買い求めたものです。以下、一つずつ紹介します。戦前のものです。すべて見開きに万年筆で書かれています。なお、原文はほんど句読点が附されていないので、読みやすいように適宜補いました。読みも( )内に補いました。
漢籍国字解全書 第十一巻 古文真宝(こぶんしんぽう)
昭和二年二月十七日午後一時四十分、小石川区原町ニ於テ所用終了セルヲ以テ、帰途、春日町ニ於テ早稲田行電車ニ乗リ換ヘ、本書の受領ニ行ク。正編ハ今回ヲ以テ終了スルナリ。續編ヲ引續キ取リ度(た)キモアリ、又、他ニ購求シタキ書籍モ多々在り。済政(ざいせい=財政)之(これ)ヲ霑(うるお)ス能(あた)ハズ。拾捨ニ之(これ)苦シム事久シ。然(しか)シ機會(きかい)ハ白馬ノ如(ごと)シ。一瞬モ止マラズ。是ヲ獲ルト獲ラサ(ザ)ルトハ人ニ因(よ)ルトスレバ、向(むこ)フ一ケ年三ケ月ノ苦ヲ忍ビテ採ル事ニ決心ス。
天氣晴朗ニシテ風強シ
午後三時三十分記
佐 拳
この方はこの叢書を発刊のたびに購入されていたようですが、正編に続いて続編が出るということから、続けて欲しいものの、他に欲しい書物もあり、なによりも収入が限られているために取捨に難儀している。しかし、機会というのは白馬のごとく一瞬にして過ぎ去るもの。これを獲られるか否かはその人による、ということで、続編購読の申し込みを決心されたようです。
古本はまさにこの通りで、欲しい本が見つかったものの、値段がちと高い。買えないことはないが、買ってしまうとこれから苦しい日が続く。さて、どうするか。もう一回りしてから、あるいは一晩考えてから明日また来よう……これが白馬を逃すことになる。買う決心をして再びその店に行くと、なんと、既に誰かに買われてしまったあとだった。こういうことは特に古書展(即売会)によくあることで、どうせ自分が欲しいあの本は誰も買いやしない、といったん離れて一回りして、さてそこに戻ってみたら買われてしまっていた! よくある話です。
漢籍国字解全書はおもに江戸時代の学者が漢籍を注解したものを集めた叢書で、一部には口述筆記もあり、「これは~ぢゃ」という言い方をそのまま文字起こししていて、口調や雰囲気が伝わってきます。明治以降に新たに学者によって加えられた書目もあります。初版は上製本として出されたものの、戦前はまだ大いにこのような書物が読まれたことから並装本(それでも箱入り)も出されたほか、同体裁で漢籍国字解全書とは別に出された書目もあり、全体では大変な分量です。江戸時代の注解書といったことから最近は中国古典文学を専攻する学生でも見向きもせず(そもそも注解も文語、あるいは漢文で程度はきわめて高い)、やれ誤字が多いだのなんだのと先輩や時には教員の受け売りで手に取ることもしない。誤字を見つけられるのはそれだけ力がある証拠で、誤字を誤字と気づかず鵜呑みにする段階ではこのようなことを言って退ける資格はありません。もちろん、出版する側も校正を徹底する必要があることは当然ですが。つづく
古文真宝本文冒頭
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