佛像圖彙260
【260】善尼師童子(ぜんにしどうじ)
[通釈]
善尼師童子 梵字はキャ
毘沙門天の脇立(脇侍)である。
[解説]
善尼師童子は、毘沙門天と吉祥天の間に生まれた五人の童子の末子とされる。両手で経典を持捧げ持つ。
[雑記] 「百年後の仏教」
【35】岡本貫玉(おかもとかんぎょく 浄土宗執綱(宗務総長)。東京浅草清光寺二一世住職。東京養老院理事長)
「欽復 今回御照會の件案見も相立ち申さず候得共(そうらえども)吾が敎界の墮落し其底止する所を知らず候、然れども窮すれば又通ずる事ありとせば百年後の佛敎は強度の淘汰が行はれて、苟(いやしく)も行ひの伴はざる能辯は如何に能辯なるも半文の價値なきのみならず、人唾して顧みるものなく此時行事堅固の比丘僧在りて世の尊重を受け、心田開拓者として敬禮せらる、茲(ここ)に於てか佛敎再び暉(かがや)きを増し從て世人も自省自覺いたし候事と存じ候。草々。」
現状は堕落しているものの、窮すれば通ずの格言の通りであれば、行いの伴わない口先だけの者は淘汰され、本物の僧侶が世の尊崇を受けるようになる。さすれば仏教は再び輝きを増して世人も自省自覚するはずである、と明るい見通しの回答です。
「行ひの伴はざる能辯は如何に能辯なるも半文の價値なき」説法をするのは僧侶の重要なお勤めの一つであり、衆生によくわかるように話すことで仏の教えも広まる。しかし、口先で良いことをいいながら、一方で自分の栄達のため、あるいは欲のために戒律を破る行為を行っているのでは、尊敬の対象となる僧侶の資格はありません。また、その場では聴衆たちを騙せても、自分自身と仏さまを騙すことはできない。こういう態度は必ず見破られるもの。
たとえ口下手でも、本物の人(僧侶)の言葉というのは心がこもっているから、聞く人の心に伝わる。そういう僧侶によって未来は明るいという、どこまでも信じる岡本師の回答もまた心を打つものがあります。
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