佛像圖彙259
【259】赤童子(あかどうじ)
[通釈]
赤童子 梵字はバク
天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、大中臣(おおなかとみ)氏の祖である。神皇孫尊(すめみまのみこと)、春日大明神である。 日向の国高千穂の峯に天下り給う時の扶翼の臣である。
[解説]
赤童子は、春日の神が垂迹した姿とされる。絵の表情が怒りでもあり、迷いでもあり、印象的なご尊顔である。
[雑記] 「百年後の仏教」
【35】大谷大学敎授 廣瀨南雄
「この頃の若い僧侶にその子供を僧侶にする積りかと訊けば、大概は「もう僧侶は自分で懲り懲りした、自分の可愛い子供は決して僧侶なんかにしたくない積りだ」といふでせう。若し今日の僧侶が佛敎を嚴護する唯一のものであり、今日の僧業が佛敎の精神を正しく具現して居るものであるとしたならば、百年後の佛敎は滅亡しない迄も、今日以上に餘程影の薄いものとなつて仕舞ふでせう。けれど私は佛敎の眞實のものがそんなものであるとは信じられません。寧ろ垢落ちて却つて佛敎は新しく、若々しく蘇へることでせう。」
僧侶は世襲でなった人と、俗人が発心して出家得度した人がいるのは昔も今も同じ。ただ、住職の資格を得るには宗派でのいろいろな修行や課程があり、さらには檀家総代らが認めないと就任できないわけですが、住職の子弟だから継ぎやすいかといえば、決してそう生易しいものではない。ただ、物心ついた時分には寺院という環境にいて慣れ親しんでいるので、先代である父の跡継ぎになる、仏道に入るという気持ちは一般人よりも強いようです。結果、世襲が多くなる。
江戸の当時であれば、それこそお寺の小僧として住み込みで働きながら一つずつ覚えていったものの、明治以降、特に戦後は義務教育を受けるのはもちろん、その後も高校や大学で知識教養を身に着けながら修行もするため、「小学校程度の学力しかない」と酷評される状況ではありません。が、それでも我が子は坊さんにしたくないという住職はいる。理由や思いはそれぞれでしょうが、回答者の廣瀬氏がいうように、世襲の「僧侶が佛敎を嚴護する唯一のもの」ではないわけで、仏道を志し、仏道修行に励み、精進し、人徳によって布教できる人がいれば、そういう人が新たな僧侶になるのがよく、因襲にとらわれずに前身してこそ「佛敎は新しく、若々しく蘇へる」、そういう強さと真理を仏教は具有しているということでしょう。
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