政談35
【荻生徂徠『政談』】35
(承前) 今の奉行は下から上がってきた事ばかり扱い、申し出がない事は取り上げず、法ばかりこだわって法の及ばぬ所は道理を枉げて法に合致させ、治めの根本が分からないために、悪人の絶えることがない。民の不心得者は法を熟知し、法の目をくぐり抜けて悪事をする上に、今の風俗は自分勝手に流れていることから、名主や五人組でもどうにもならない状態である。さらに今の奉行は世の風儀に影響されて殊の外威張って下を近づけず、法を振りかざすために、上下の意思の疎通がなく、結果的に下を治めることができない。上より預かっている町村を我が家のごとく我が身に代えて世話をし、同じ町村内の人たちが和睦し、民の風俗が良くなるように留意し、名主にもそのように申し含めて、下の者が尻込みしたり疑いを持つことがないようにするのを、真の治めというのである。
[注解]本書が書かれた時の江戸町奉行は南が大岡越前守、北が中山出雲守。どちらも立派な人で、特に大岡は名奉行として美化されているほどです。虚像の部分が多いわけですが、水戸光圀公同様、後世美化され称えられるようになった人物はそれだけ良い意味で特異な言動があったからで、全く何もない凡庸な人が称賛されることはないわけです。徂徠は果たしてこの両奉行のことを念頭に置いていたのか、それとも「昔はよかったが今は」式の頭で決めつけたか何とも言えませんが、厳しい物言いをしています。奉行とはかくあるものだ、という筋を示すため、ことさら厳しく述べたのかもしれませんが、このような言い方はこのあとも数回出てきて、中には老中についてまで言っている所をみると、上の者はかくあるべし、ということを示さんがために「今の上は」と言うことで弛緩しかかっている政治を引き締めようとしたのかもしれません。
「上より預かっている町村を我が家のごとく我が身に代えて世話を」する――これは選挙で選ばれた議員こそがよく肝に銘じておかなければならないこと。「上」を「国民、市民」に置き換えることは言うまでもない。この意識、責任感があれば、乱暴な言葉(対立する政党に対してならまだしも、一般の人や組織に向けての罵詈雑言)はおよそ出ないものだし、そういう人を選んでこそ選挙の意味がある。今は毒舌を囃し立て、毒舌を本音として評価する風潮が大変強いですが、その結果、人を馬鹿にした言動をすることが真の政治家、改革者だと称える向きまで出てきて、政治家の質が低下の一途をたどっている。今までは野次はおもに陣笠議員らの仕事で、閣僚、特に首相は何を言われようと黙して反応しないのが当然だったのが、今の首相はみずから野次を飛ばしている。しかも、支持率が下がらない。そういう世の中になったことに危機感を持たない社会にこそ危機感を持つべきです。
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