佛像圖彙234


【234】大宮権現(おおみやごんげん) 


 [通釈] 大宮権現 梵字はバク 

欽明天皇元年庚申、大和の三輪の明神天より降臨されて、天智天皇元年、大比叡に姿を現された。大已貴(おおなむち)である。 本地は釈迦如来 


 [注] 

権現 明神の対義語で、明神は神がそのままの姿を現すこと、権現は、権は仮の意で(権大納言など官職の権は定員外、つまり臨時、仮という意味)仮の姿で現れたということ。大宮権現の場合、本地が釈迦如来とあるから、釈迦の仮の姿ということになる。 

大己貴 大己貴神(おおなむちのかみ)。「日本書紀」が設定した国の神の首魁(しゅかい)。「古事記」では大国主神(おおくにぬしのかみ)の一名とされる。 


 [解説] 大宮権現は山王七社権現の一つで、大比叡に祀られる(東本宮)。大和から移されたと伝えられる が、元々は大比叡の山を神格化したものと思われる。 


 [雑記] 「百年後の仏教」 

【16】文學博士 村上專精(むらかみ せんしょう、嘉永4年4月1日(1851) - 昭和4年(1929)10月31日)、明治・大正期に活躍した教育者、仏教史学者) 「來年の事も豫言致し難い私が百年後の佛敎など如何に考慮しても到底豫想することが出來るものにては無之候間(これなくそうろうあいだ)折角の御尋問に候へども御斷り申より外これなく候、但し現下各宗本山の態度にては餘り繁昌する譯(わけ)には參りますまい。」


  来年のことさえ予言できない(わからない)のに、100年後の仏教がどうなっているのかなどといったことは想像もできない。ただ、今のような各宗の本山の態度のままなら栄えることはできないだろう、としています。本山の態度というのが意味深長で、わかる人にはわかるということですね。  本山の態度と直接には関係ないでしょうが、ある寺院の動画のチャットで、次のようなものがありました。 「叔母が浄土真宗のお寺で般若心経あげていたら、お寺の方に、指で背中をちょんちょんととされ、「うちの宗派では般若心経はあげません!」と注意されたと言ってました。他力本願だから自らお経をあげてはいけない?とか言われたそうです。」 

 真宗は阿弥陀如来に帰依して念仏を唱えることで浄土へのお導きがあると説いており、般若心経を否定はしないものの、日々の勤行や法事でまず唱えることはないとのこと。 

 その動画のお坊さん(真言宗)は、自分は宗派の違いでどうこうというのは気にしないとした上で、どの宗派であれ、仏教は釈尊(仏陀)の教えが根本であり、般若心経はそれを凝縮したものであるから、どの宗派に対してであれ、否定されるものではない。しかし、一方でそれぞれの宗派には宗派として特に大切にしている経典があり、作法があるから、それに従う。しかし、一般の人にそういう違いを知るのは難しいし、調べるといっても専門家でも覚えるのは大変だから、般若心経をお唱えしたいのであれば思いのままにするのがいいし、それが認められない所なら黙って手を合わせるだけでもよいと思う、とのことでした。

  このチャットにある「お寺の方」の態度もまた、100年前に村上専精氏が挙げた「本山の態度」を指すのではないでしょうか。そもそも、お唱えしている途中で遮るのもどうかと思います。般若心経は長いものではないし、唱え終わってから「当宗ではお念仏をお唱えして頂けると有難いです」とやんわりと教えてくれれば、参考にもなるし、次からはそれに従うこともできるわけです。

  なお、別の動画のお坊さんは「(世襲の)僧侶の中には世間知らずで、参拝に来た人に対して傲慢な態度をとられる方が確かにいらっしゃる」と。コロナ禍でネットを通じて宗教もいろいろ可視化され(神社やキリスト教教会、その他)、我々シロウトには参考になること多大で、しきたりなど知ることも多いですが、宗教者同士で動画配信を見ては意識をし、中には他を批判される方もいて、お坊さんも人それぞれだなあというのが一番の収穫かもしれません。    

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