佛像圖彙224
【224】盧舎那仏(るしゃなぶつ)
[通釈]
盧遮那仏 梵字はア 二十七日
今ここに浄満というのは 諸悪を無くすからであり、そのために浄といい、万德が丸く満ちることから満というのである。これはつまり受容報心である。又、光明遍照(こうみょうへんじょう)ともいう。大論に見えているのと同じである。
[注]
受容報身 仏となるための修行と功徳を積み、その結果として完全な功徳を得た身。
大論 大智度論。前出。
[解説]
盧遮那仏も前出。盧舎那(ルシャナ)・毘盧遮那(ビルシャナ)はサンスクリット語のヴァイローチャナの音訳で、光明があまねく照らすという意味の「光明遍照」と漢訳される、華厳経の教主。平安時代の密教で宇宙の根本仏とされる大日如来は、ビルシャナ仏から展開した仏。なお、奈良の大仏が盧遮那仏だが、創建以後、数回焼失し、今の像のうちお顔の部分は最も新しく江戸時代に作られたもので(それまでは長く間に合わせのもの銅板をはめてあった)、最初のものとは全く似ても似つかないものであるばかりでなく、画像でわかるように顔面が扁平で(特に頬からあごにかけて)、国宝に指定されてはいるものの、残念なお顔になっている。
建立された天平時代は、仏教は官との結びつきが強く、国家鎮護のためにあった。個人の思いをくみ取って救済するという意識は希薄で、国や政権の力を見せつける意味から巨仏が作られるに至った。大きければそれだけ「光明遍照」の威力も大きく広く及ぶということだろうが、見せつけるという意味のほうが大きいのは残念である。古来、奈良の大仏は大きさに圧倒され、「見るものにして拝まず」とまでいわれてきたのも当然であろう。見学者は多いが、手を合わせ、誦経する人は少ないという。お釈迦さまは身長が「丈六」、一丈六尺(五メートル弱)あったということになっており、それ以上大きいものを大仏と称する。奈良の大仏は坐像でありながら約14.7メートル、丈六の三倍もある。圧倒されて当然だろう。
[雑記]
「百年後の仏教」
【7】文学博士 澤柳政太郎
「百年後には佛敎は今日よりも盛であろう、然し丁度今日其の起つた印度や、次に弘まつた支那よりも、却つて日本に存して多少の生命ある如く、百年後には、日本よりも歐米に盛であらうかと想はれる。今日の佛敎家の大反省を望む。」
100年後は今より盛んになっているだろうが、日本よりも欧米で盛んになっていると予想する、仏教家の大反省を望むという簡潔な回答。 確かに、仏教は印度が発祥の地とはいえ、今の印度はヒンドゥー教 (79.8%) ; イスラム教 (14.2%) ; キリスト教 (2.3%) ; シーク教 (1.72%) ; 仏教 (0.7%)という割合で、仏教はまるで異端のような存在。日本に伝わった大乗仏教が整備された中国でも無宗教 / 中国民俗宗教 (73.56%) ; 仏教 (15.87%) ;道教, 救度宗教,その他 (7.6%) ;プロテスタント (2.%) ;イスラム教 (0.45%) ;カトリック (0.34%)となっており、割合でこそ二番目に多いとはいえ、少数派。ちなみに、中国では主要な宗教は「無神論」を掲げる中国共産党が統治しているため、そ れぞれの宗教に「愛国宗教団体」を置き,共産党の管理・指導の下で一定の活動を認めている状況とのことです。
日本も上辺では無神論者が多いものの、特に葬儀や法事など死者の弔い、回向は圧倒的に仏式が多く、さらに札所巡りといったことも盛んで、政教(仏教系)が一体化している政党まであるなど、明治以降国家が神道を優位に置いたとはいえ、仏教が盛んなのは間違いない。
他方、特に禅によって仏教に目覚めた欧米人が自国で広めたり、いろいろな宗派が各国で支部の寺院を建立するなど積極的な進出により、まだ盛んとはいえないにしても欧米で仏教が広まりつつあるのは確か。いずれ澤柳博士の予測通りになるかもしれません。
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