政談25
【荻生徂徠『政談』】25
(承前) しかるに、綱吉公の御代に、勝手に手打ち・成敗した者に対して立身させないようにしたことから、武士の風儀は柔弱となり、今では手打ち・成敗ということは世間でまったく聞かれなくなった。されば、出替り者などを雇用するにも、給金を損しないようにするのを利口なやり方とし、欠け落ち・逐電があれば請け人から損金の給金を取り戻し、詫び証文を以て頸代(くびしろ)とし、金さえ取り戻せば逃げた奉公人を捕まえて事情を聞くことさえもせず、武士の作法を脇へ押しのけて損得の工面を第一とするようになった。そればかりか、ついには頸代という仕来たりさえ忘れて、給金さえ取れば欠け落ち・逐電の罪が消える(許される)状況にまでなった。さらに、請け人にも悪者がおり、城下に長年住み馴れていることから、奉行の裁きを熟知し、主人の訴えを拒否するばかりか、返りくじをする輩さえ多く、不慣れな奉行は穏便にすませようという裁きにならぬ裁きをすることが近年特に多くなった。
[注解]●頸代 首を斬るべき処分を罰金で済ませること。首の代金。 ●返りくじ 被告でありながら原告の弱点や過失をつかまえて逆に訴えること。現代は力の強い立場の者で反省の念が全くない者ほどこれをやり、訴訟合戦の様相を呈するが、すでに吉宗の頃にはこれが盛んに行われた。江戸時代は現代以上に訴訟が盛んで、そのために江戸に来る地方の人も多く、大石内蔵助らも名目上は訴訟のためということで江戸に滞在した(訴訟人は息子の主税(ちから)で、内蔵助は後見人という触れ込み)。実に年間数万件もの訴訟が町奉行に提出された。後の時代になるほど増えたが、法治主義が徹底したこと以上に、返りくじ(くじ=公事)をする者が続出したことも影響している。
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