司馬江漢随筆・続6
【江戸時代の随筆・司馬江漢】続6
今の儒者は儒者ではない、身の持ちようも知らず、大酒を呑み放蕩不埒者と誹られる連中である、と思っている人が多いが、これは甚だしい間違いである。
儒者というのは漢の字をよく知り、難しいものを理解し、和歌のような和文を漢文にし、さらに聖人が著わしたり編纂した経書(けいしょ)を理解するだけでなく、聖人の教えを譬えをもって教示し講釈する人のことで、それをもって世間の人たちが儒者を聖人と思うことが間違いというものである。
聖人の教え(道)を実践するかどうかは、儒者の預かり知らぬこと。これは人によることである。どれほど利口でも邪悪な人があり、愚かに見えても聖人のような振る舞いをする人もいる。文学を良く知り、学者先生と人々から褒められる人でも、まったく道理が通じない人や、数万巻の書物を読み、博識と称賛される人が、聖人の心を知らぬ人もいる。
であるから、聖人の教えについて儒者によく聞き、理解し身に付けて実践する人を真の儒者というのである。されば、世にいる学問を教えることを渡世とする儒者のことではないことを理解するように。
[注解]江戸時代における「儒者」は儒学を教授する学者にして教育者のことで、幕府や藩に士分として召し抱えられている者は儒官として、今の大学教授のように身分が保証され、羽振りもよかった。もともと儒者(儒家)とは、孔子の教えを信奉し実践する人、さらにはその教えを伝え教える者や家のことで、宗教ではないものの、教え(徳)により少しでも孔子のような立派な人に近づこう、同じになろうと努める人のことを言ったものです。しかし、孔子が嘆いていたように、孔子の時でさえ学問(これもあくまで自身の修養目的とする)を生活のため、糊口のためにして(早い話が学問教育は金を稼ぐための具)、自分自身のために学問をする者が少なかった。教育が利権となり、政治家まで不正に関与する現代を見たら、孔子はもちろん、真の儒者たちは驚き呆れることでしょう。しかも、そういう政治家たちが道徳教育の強化を進め、愛国教育のための学校作りに熱心なのだから。江戸時代は儒官ではない、市井の学者が大勢いて、しかもこちらのほうが実力も人気も高かった。その中から儒官として招聘された人もいますが、今と違い、学者(研究者)は別に公的機関に属して研究者番号が付与されている者だけが正当に評価されるといったことはなく、あくまで実力により、その名声を聞きつけて全国から我も我もと教えを乞うために来た。弟子3千人といった師も珍しくなかった。これはなにも江戸在の学者に限ったことではなく、地方の学者でも優れた人なら各地から来て、寄宿して教えを受けた。窮屈な宮仕えの儒官より、のんびりできる庶民のほうがいいといったことで、終生、幕府や藩主の誘いを断った。今も外国では民間の研究者でも実力により評価され、江戸時代と同じです。むしろ、今の日本のほうが学者を特権階級にし、いくら民間人で本業は別にあったり、仕事はせずに研究に打ち込んで優秀な人でも、世間は全く相手にしない。大企業などがパトロンになって育てようということもしない。これも外国では盛んなこと。更に、現政権になってからは大学を職業人養成機関としたり、重厚にしてすぐには結果がでない研究よりも、すぐに結果が得られる速成の研究を奨励している。知性も教養もあったものではない。なるほど、現政権をみればよくわかりますね。今回の随筆は一言でいえば「論語読みの論語知らずとは」でしょう。
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