佛像圖彙162

【162】中央 大聖不動(だいしょうふどう)


[通釈]

五大尊明王 中央 大聖不動明王 梵字はカーン

『青龍疏』に「一切の鬼魅及び諸々の障惱を降伏するもの」と。

本地は大日如来。


[注]

青龍疏 前出。

本地 ほんじ。仏教が日本に伝播する前から存在した神々について、仏教が広まるにつれて仏や菩薩 が人々を救うため、仮に日本の神の姿をとって現れたのだとする考えが起こった。これを垂迹 (すいじゃく) 身という。これに対して本来の仏・菩薩を本地仏、略して本地という。この神仏習合思想を本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)といい、入試にもよく出される有名なものである。本来、その土地(国、地域、民族)で古来から信仰されてきた神に対して、あとから入ってきた別の神に対しては排斥しようとするのが一般的だが、こと仏教に関しては、広まる先々の神と融合しては新たな神仏が作られ、これもまた信仰の対象となっている。多神教世界ではこのような受容が顕著で、日本でもこのあとたくさん登場するが、古代から崇められてきた神や著名人が、実は仏や菩薩の仮の姿であるというものが実に多い。『法華経』の本迹二門の説などが大きく影響されているという。この場合、仏教が主、神道が従という立場になるため、鎌倉時代になると反発から神祇を主、仏陀を従とする反本地垂迹説が現れ,如来は天皇の垂迹である、つまり如来は天皇の仮の姿だといったことまで室町時代以降に言われ出すようになった。


[解説]

大聖不動は正しくは大聖不動明王。「大聖」は尊称として冠したもので、一般的には不動明王で知られる諸明王の中の総主。密教では大日如来の化現として、一切の悪魔煩悩を降伏させるとする、最も尊敬される明王。その由来はヒンドゥー教のシバ神の異名で、アチャラナータ(Acalanāta、漢音で阿遮羅嚢他(あしゃらのうた))。アチャラは無動尊の意。大日如来の命を受けて忿怒(ふんぬ)相に化身(けしん)したとされる。本書では本地が大日如来とする。


[千手観音の持物]23

紅蓮華手


 衆生を兜率天(とそつてん)を始め天宮に導く手。紅蓮は「ぐれん」と読みます。


[雑記]

 12月8日は釈尊が悟りを開いたことから成道会(じょうどうえ)として、4月8日の花まつり(釈尊生誕日。仏誕会)、2月15日の涅槃会(ねはんえ。入滅の日)とともに仏教での重要な日とされています。但し、以上の日づけは日本でのもので、中国やネパールなど、他国では別の日をあてているものもあります。

 先述のように、釈尊は何を悟ったのか。悟った、という言い方は実は正しくないようで、「悟りを開いた」というのが正しい。では、その「悟り」とはなんなのか。一般的、俗な言い方としては、「生まれた以上、絶対にやって来る老と死はどうすることもできない」という生者にとっての宿命を受け入れることだと言われています。

 この世に絶対というものはない、とよくいわれる。しかし、それはある。死です。死に例外はない。過去に生きた人たちはすべて亡くなっている。生まれて500年、1000年経ったがまだ生きている、などという人はない。生まれた以上は、死がセットになっている。この現実を受け止めるしかないということが、悟りの一端のようです。また、生きている最中は、いろいろな苦しみが襲ってくる。それもまた必然的なものとして受け止める。

 そこで、なぜ生まれたのか、生まれた意味はなんなのか、生まれた時からすでにさまざまな「差」があるのはなぜなのか、といった無数の疑問が生じます。仏教の膨大なお経と、それぞれの註釈、論考(これらもお経となっている)の中でいろいろな説が提示されたり、諦めることの大切さなどが説かれたりしていますが、結局はやがて迎える「死」に対する心構えをいかに持つか、持てるかにかかってくる。だから、仏教とは死の宗教だとする人もおり、そうではないとする人もいて、いろいろな書物や動画を見ても結論は得られません。結局は自分の心に向き合い、自分の中で思索を深め、あるがままを受け入れ、そんな自分の存在もまたあるがままにする、といったことに帰着するのだと私なりに考える次第です。

 なお、般若心経の「阿耨多羅三藐三菩提」(あーのくたーらーさんみゃくさんぼだい)、これはサンスクリット語をそのまま漢字に音写したものですが、これが釈尊のいう悟りであると言われています。「無上正等覚」と漢訳するそうですが、これが得られれば、もう恐いものなしということですね。それがどのようなものか、はっきりとは分からないし、意識して得られるものでもないですが。

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過去の出来事

過去の本日の朝廷や江戸幕府の人事一覧、その他の出来事を紹介します。ほかに昔に関する雑記など。