佛像圖彙107
【107】徳王観音(とくおうかんのん)
[通釈]
徳王観音
梵王身
[注]
梵王身とは普門品で説く「六種天身」の一つ。梵天に化して衆生を済度する。
[解説]
ここで観音さまの変化の姿である三十三身についてみておきたい。
三聖身・・・仏身、辟支仏身、声聞身
六種天身・・・梵王身、帝釈身、自在天身、大自在天身、天大将軍身、毘沙門身
五種人身・・・小王身、長者身、居士身、宰官身、婆羅門身
四衆身・・・比丘身、比丘尼身、優婆塞身、優婆夷身
四種婦女・・・長者婦女身、居士婦女身、宰官婦女身、婆羅門婦女身
童男童女二身・・・童男身、童女身
人非人八部身・・・天身、竜身、夜叉身、乾闥婆身、阿修羅身、迦楼羅身、緊那羅身、摩候羅迦身、執金剛一身
観音さまは本来、衆生には見えない存在であるが、その衆生を済度、つまり救済するためには姿を現す必要がある。しかし、衆生の悩みや苦しみはさまざまであり、それに応じた姿でないと済度ができない場合もあるため、慈悲そのものの仏身、帝釈身といった姿から、夜叉身、阿修羅といった悪神由来の姿までされる。
六種の天身はおもに欲望に関するもので、例えば、我を忘れて欲望の追求に夢中になっている人が梵王身を念ずることで、そこに観音さまが梵王身となって現れる、といったもの。なかなか欲に取りつかれている時に仏心を起して念ずるというのは至難の業だが、どんなに欲に溺れていても、ふと我に返り、自分はいったいなんのためにこんなことをしているのだろうと思い、空しい気持ちが起こればしめたもの。つまり、自制と自省の気持ち、自分というものがある限りは、必ず仏心が起こるし、仏身が見守り、済度のため手を差し伸べることもされる。しかし、欲を捨てるのは並大抵なことではできないため、憤怒の形相をした恐ろしい悪鬼が来ることもある。が、観音さまは悪魔の化身である自在天にもなって衆生済度をされるのであり、本物の悪鬼ではないということ。
説くところは明確であるものの、文章としては難解と言われる観音経について、我流で解説していろいろ批判を受けるかもしれないが、中らずと雖も遠からずであると信ずる。
[雑記]
江戸時代の京の店、つづき。数珠屋さん。数珠は一般の人にとっては一つあればそれで充分、法事などごくたまにしか使わないからいいものの、ご出家だとそうはいきません。毎日のお勤めから何から常に必要で、いくつあっても構わないほど。珠の素材は頑丈なものでも、紐が切れる、房が取れる、汚れるといったことで、修理が必要。また、お坊さんの格が上がればそれ相応のものが必要ですし、こういったことから、販売と修繕を請け負う店は当時から賑わったようです。
江戸時代の店でのお坊さんと店の主人や番頭さんとの会話、どんなものだったのか、想像するだけでも楽しいものです。
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