佛像圖彙104
【104】瀧見観音(たきみのかんおん)
[通釈]
瀧見観音
火坑変成池(かーきょうへんじょうちー)
[注]
火坑変成池 『観音経』普門品第二十五偈「假使興害意(けーしーこうがいいー) 推落大火坑(すいらくだいかーきょう) 念被觀音力(ねんぴーかんのんりき) 火坑變成池(かーきょうへんじょうちー)」に基づく。
[解説]
瀧見観音は、俗塵の及ばない深山幽谷の岩上に静かに安座する姿で、『観音経』に「たとい害する心を興して大なる火の坑に推き落とされんも、火の観音の力を念ずれば火の坑は変じて池とならん」とあり、悪意に満ちた火焔が瀧の飛瀑の力によって鎮火し清浄な心にさせる観音。
以下、横須賀市のサイトより引用。
木造 観音菩薩坐像(瀧見観音)重文
国指定(重要文化財)年月日:平成10年(1998年)6月30日
清雲寺に伝わる観音菩薩坐像は、その形状形態から南宋時代に中国の江南地方で製作されたものと考えられる。
材質は中国産の桜材とみられ、体部は像内に空間ができるように正面材と背面材を貼り合わせ、底板(亡失)をはめる箱組式の構造である。
頭部は一材であり、瞳はガラス様の玉が裏からはめられている。地髪、肩上の垂髪および胸飾は練物が貼り付けられている。
表面はかつて、漆塗りで全身が淡紅色の地色で被われ、衣部は顔料や金により文様が施されていたと思われるが、現在ではほとんど剥落している。
この像は右ひざを立て左ひざを垂下させたくつろいだ姿勢、面長で鼻梁が細い顔だちなど、妖婉さを漂わせる印象がある。このような像は中国では、五代頃より盛んに作られた。
それらは景物や付属品等により水月観音、楊柳観音等と呼ばれる。この像も、瀧見観音と呼ばれ親しまれている。
また、その作風の特色や技法などが京都泉涌寺の観音菩薩座像(楊貴妃観音)と同一であり、両者の関係が彫刻上の興味に留まらず歴史的な関係が想像される。
この像がこの地にもたらされたのは、その製作年代から三浦氏が領主であった時代で、三浦氏が滅亡した宝治元年(1247年)以前と考えられる。
13世紀後半から鎌倉を中心とする周辺で製作された像に、宋彫刻の影響が見られるのは、この像がもたらされた時代背景によるものと思われる。
この観音菩薩坐像は、東国に宋文化を伝え芽生えさせたことを語る代表的作例の一つである。(南宋時代1127~1247年)
[雑記]
江戸時代後期の京都の店一覧より、仏具関係。さすが京の街、寺社が多いだけに、仏具関係の商売、職人、店も多くあります。
右の田中伊賀掾(いがのじょう)は真言宗専門の仏具師。このように特定の宗派を相手にする店・職人がいるのは、このように特化(つまり対象を限定)しても商売が成り立つことを意味しています。自身が真言宗の信者ということで限定したというケースもあるのでしょうが。
仏壇が普及し始めたのも江戸時代です。つづく
0コメント