佛像圖彙98

【98】龍頭観音(りゅうずかんおん)


[通釈]

三十三体観音

龍頭観音

天龍夜叉 


[注]

三十三体観音 三十三観音とも(こちらのほうが多く使われている)。『法華経』「観世音菩薩普門品(観音経)」普門品に、人に応じて三十三の姿に変化して衆生を済度すると説くのに基づく。これを普門示現(ふもんじげん)という。天身(デーヴァの姿)、竜身(ナーガの姿)、夜叉身(ヤクシャの姿)の三つに対応するとされる。 中国で発達した尊格。三十三(体)観音は楊柳観音が筆頭に置かれることが多いが、本書では七観音に加えているために、龍頭観音が第一に置かれている(格が高いという意味ではない)。


[解説]

 龍頭観音は、観音を守護する八部衆の一人。龍の化身。画像は龍頭観音立像(佐藤朝山)東京国立博物館蔵。


[雑記]

 悟りの続き。一般に、「お釈迦さまは苦行の無意味さを悟った」といわれ、いくら難行苦行をして我が身体を痛めても、そこからは何も得られない、だから寒中に水をかぶったり、険しい山道を何十キロもあるいたり、連日連夜お堂に籠って誦経しても意味がない、このように言われています。

 苦行に意味があるか否かは別にして、お釈迦さまが「苦行の無意味さを悟った」というその悟りと、「悟りを開く」の悟りとは、意味が違うようにシロウト考えですが思うわけです。

 また、お釈迦様は人にとっての苦である生老病死をどうすれば無くせるか、克服できるかを思案し抜いたものの、結局、生きている以上は生きることが苦であり、さらに老いも病気も死も避けることはできない、だから、これが現実であるから諦める(肯定して受け入れる)しかない、ということを悟ったともよく言われています。

 苦行は無意味と悟った

 生老病死は必然で仕方がないものと悟った

 この二つの悟りは、あくまでお釈迦さまがそのように気づき、結論に至った、ということであり、「菩提」(煩悩(ぼんのう)を断って悟りえた無上の境地)とは明らかに意味が違います。もうこの点でシロウトにとっては混乱してしまうのですが、それでは先へ進むこともできない。しかし、これで断念してはもったいない気がします。つづく

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