佛像圖彙85
【85】大自在菩薩(だいじざいぼさつ)
[通釈]
大自在王菩薩
『涅槃経』にいう、「大とは、その本質が広博であること、まるで虚空のようである」と。(また)『無量寿経』にいう、「一切の万物が意のままに自在にできる」と。
大自在で神変無碍である(ことから名付けられた)。
[注]
持ち物は腰鼓(ようこ)。唐楽に用いられた。正倉院にも遺物が伝存する。
[解説]
大自在王菩薩は、八正道を示し,衆生を苦界から救う菩薩。八正道とは仏教を一貫する実践の徳目。八聖道とも。以下の8種の道をつねに守り行うことによって悟りが得られ、理想の境地である涅槃に到達されると説く。
(1)正見(しょうけん) 正しい見解、人生観、世界観。
(2)正思(しょうし) 正しい思惟(しい)、意欲。
(3)正語(しょうご) 正しいことば。
(4)正業(しょうごう) 正しい行い、責任負担、主体的行為。
(5)正命(しょうみょう) 正しい生活。
(6)正精進(しょうしょうじん) 正しい努力、修養。
(7)正念(しょうねん) 正しい気遣い、思慮。
(8)正定(しょうじょう) 正しい精神統一、集注、禅定(ぜんじょう)。
釈迦の教説のうち、最初にこの八正道が確立し、それに基づいて四諦(したい)説が成立すると、その第四の道諦(どうたい)(苦の滅を実現する道に関する真理)はかならず「八正道」を内容とした。八正道―四諦説は、後代の部派や大乗仏教においてもけっして変わることなく、出家・在家の別なく、仏教者の実践のあり方を指示して今日に至っている。
[雑記]
あるお寺が開設しているユーチューブのチャンネル(後学のために登録しているものの一つ)で、以下のようなアンケートがなされました。
私が回答したものにチェックが入っていますが、項目にないものの、私の考えは「わざわざ聞くまでもない」です。
奈良時代、寺院というのは時代の最先端をゆくものでした。当時の先進国、中国からさまざまなものを輸入し、学び、行政から風俗に至るまで、貪欲なまでに採り入れました。遣唐使の一員であった僧侶は学者であり、文化人であり、文系、理系といった区別なく、漢文(現代における公用語の英語と同じ)で吸収し、理解した。
だから、寺院もまた当時の建物としては最先端の技術を駆使し、堅牢で、しかも見た目にも美しく造形されました。
何が言いたいかというと、今は寺院というと古臭いもの、古いものを墨守しているもの、といった固定観念があるため、オンラインでの法事、法要、法話などの公開そのものに対して否定的な人も少なくなく、お坊さんの中にさえそういう考えをされて、中には批判されている方もおられるとのこと。オンラインだけでなく、SNSで公式アカウントを開設されている所も増えつつありますが、これすら賛否がある。画像で本尊を公開し、拡散することすら認めないという意見や抗議もあるとか。
しかし、上記のように、本来、寺院というのは信仰の場、仏教でいうと布施を交わす場であるのは当然としても、すべてが古くなければならないという決まりも教えもないので、仏事は伝統や作法、しきたり通りにする一方、僧侶や参拝者が快適に利用できるように便利なものを採り入れることまで気にしたりとやかく言う必要はないと考えます。昔であれば僧侶だけでなく参拝者も正座が当たり前だったのが、平均寿命も延びてご高齢で足腰の悪い方のために椅子を用意するといったこともその一つ。そもそも、正座というのも太古の昔からのものでなく、元は胡坐(あぐら)や立膝といった座り方で、本当はこのほうが楽であるものの、見た目の姿勢の点で正座のほうがきれいといったことなどから、江戸時代に正座が一般的になった。だから、そんなに古くからあるものではありません。
チャンネルを開設されているご住持が各位の声を聞いてみるというのも便利なネットならではのものであり、アンケートをとるのも一つですが、既にもうやっているのだから、気にせずやるのがよいと思います。
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