佛像圖彙72
[通釈]
宝蔵菩薩
宝とは七種の珍宝であり、蔵とは倉庫に納めるの意味である。譬えるならば世界の福分珍宝を土蔵に納めておき、よろずの事に用いる様なもので、この菩薩も衆生の願望に従って功徳大悲の大宝蔵を開いて御救い下さるのである。
[注]
七種珍宝 七珍万宝とも。経典によって異説はあるが、輪宝・象宝・馬宝・君宝・臣宝・摩尼宝・后宝の七種の宝となるもの〔倶舎論‐一二〕。また、無量寿経では金・銀・瑠璃 (るり) ・玻璃 (はり) ・硨磲 (しゃこ) ・珊瑚 (さんご) ・瑪瑙 (めのう) 。法華経では金・銀・瑪瑙・瑠璃・硨磲・真珠・玫瑰 (まいかい) 。七種 (ななくさ) の宝。七珍。しっぽう。
[解説]
宝蔵菩薩は阿弥陀如来の前身とされる。もと仏である方が、衆生救済のため菩薩の姿となり修行され、現世(穢土)に還って衆生を救う。菩薩が身近なものに感じられるのもこういうことによることが大きい。
[雑記]
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」について、この訳注に協力いただいている冢堀庵先生から、興味深いご見解を頂きました。
各宗派の祖師が蜘蛛の糸を見たらどういう態度と取られることであろうか、というもの。
最澄ならまず皆を登らせ、自らは登らずに地獄で見送る。
空海なら蜘蛛の糸に頼らず新たな救済の手立てを考える。
圓光大師や親鸞・一遍も同様。
日蓮は敢て糸を無視し、地獄の責め苦に立ち向かう。
私(冢堀庵)は衆生の登るに任せ、自らは登らずに彌陀の名号を唱え続ける。
いずれの高僧も糸を伝ってまで浄土へ行くことはしないということで、ひとつの見方ではあるものの、そういうこともあるのだろうかと素人考えで感心してしまいます。修行者は悟りを開く、すなわち彼岸の世界へ行く(成仏)ことを目指して厳しい修行を重ねている。その結果、めでたく悟りを開いたとしても浄土で安穏に暮らすのではなく、再び菩薩として修行すると同時に衆生の救済につとめる。高僧たちも揃ってそういう気持ちになるのでしょう。
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