佛像圖彙65
【65】薬上菩薩(やくじょうぼさつ)
[通釈]
薬上菩薩
過去瑠璃光照仏の時代に日蔵という比丘があり、星宿光という長者が説法を聴聞した。そのため訶黎勒(かりろく)及び諸々の雑薬を奉った。
かつて薬王という弟があり、電光明といった。醍醐及び上妙薬を供養した。名づけて薬上という。
[注]
訶黎勒(伽梨勒・訶梨勒等の表記も) 中国、インドシナ半島、マレー半島に産する高木。30メートルにも達する。実を薬用とし、便通、咳止め薬とする。匂い袋にも訶梨勒という形の物がある。日本へは八世紀ごろ僧、鑑真が伝えたといわれる。
[解説]
薬上菩薩は薬王菩薩と共に釈迦如来の脇侍として付き従う事が多く、単独での信仰は皆無。手に薬壷を持つとされるものの、定型は無く、しばしば変容する。薬王菩薩とは兄弟であったとされる。画像は興福寺蔵、薬王・薬上菩薩立像(鎌倉時代、重文、常時公開)
[雑記]
芥川龍之介『蜘蛛の糸』続き。この作品は、救済はあくまで自力ですべきものであり、仏など超越した存在に求めてはならないという芥川の思いを主題にしたものとされ、実際、そのように読み取れる。しかし、そのために釈迦の態度を冷淡なものにしたことは早くから批判され、芥川自身も本作完成直後には気にしていたらしく、後に続く作品では突き放したような自助というのは見られなくなっています。但し、仏のような超越したものに対する冷めた気持ちは変わらず、『邪宗門』では若殿の独白という形で「弥陀も女人も、予の前には、皆われらの悲しさを忘れさせる傀儡(くぐつ)の類いに外ならぬ」のいう芥川の本音が吐露されています。傀儡は操り人形のこと。一時的に悲しいという気持ちは忘れさせてくれても、根本的な解決、救済にはならないということ。こう言われてしまっては仏さまにとって身も蓋もないでしょう。
とまれ、『蜘蛛の糸』においては釈迦が無慈悲としかいえない態度で、糸が切れて地獄の底へ落ちて行った罪人たちを見てそのまま何事も無かったかのように立ち去るという姿からは、慈悲というのはどうひいき目に見ても感じられない。最低でも下品下生で浄土に行きたいなら、最低限の発心と善根が必要であり、我欲しかない者は救われない、ということですが、これについては学者や宗派、お坊さんによっても見解がさまざま。我欲を肯定する宗派もあり、煩悩を完全に消し去ることは不可能とする考えも多い。ましてや、果てしない地獄の責め苦に遭っている人が、天から一筋の糸が下りてくれば、無我夢中になってすがりつくのは当然で、しかも糸を垂らしたのはお釈迦さまなのだから、それは救済の意味以外の何物でもなく、試してみたという意地の悪いことではないはず。
この作品、仏教説話とは違い、限りなくお釈迦さまが悪役に近いような印象を受けてしまう特異なもの。このため、「宗教は救いのよりどころにはならない」という極論の批評まで出されている状態ですが、まだ作家として未熟だった著者ゆえの不完全な作品といえるでしょう。つづく
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