墓碑の採拓と文字について
墓碑の採拓と文字について
東隅書生(東隅随筆562号より)
最近、谷中霊園で見かける看板。「石碑等の採拓は霊園管理所の許可が必要です」と。
一見すると拓本を勝手にとるなという禁止方向にあるようにも見える看板だが、それはつまり許可が取れれば拓本を採ってよいという姿勢とも考えられる。方法が正しければ碑は汚損しないので、管理下で拓本採取を認める方針は歓迎である。
反面、無許可拓本が横行しているといった認識もあるようで、悪くすれば今後全面禁止も有り得るのである。事実、幾つかの墓碑で、下手の拓本採りの原因から、碑面に薄っすら墨痕の残った墓碑を目撃した。それが汚損のままに放置されている。もしその墓碑の縁者が自分であればどのように思うのか。甚だ腹立たしく感じるはずだ。あるいは全面禁止を事務所に申し出るだろう。実際に花見の酒席を設ける事は苦情を元に谷中は全面禁止となった前例もある。よからぬ少数派の行為で全部が駄目になる。あるいは拓本も免許制にしてしまうという手もあろうか。
拓本も上手く採るには多少の経験を積んでの熟達を必要とするだろう。つまり手数、場数を踏む必要性である。数をこなして行くうちに、自己発明が生まれてくる。自分流のやりやすさといったものである。そこは一概ではないのである。年齢を重ねると若い頃のようにはいかない。それなりに楽に採る方法を考えるのである。それに思い至るのも経験がものを言う。やっているうちに拓本法も進化していくのである。
墓碑の前に立って、自分の姿が映るような不気味な墓碑は間違いなく現代の技術によって磨かれた墓碑である。だが、近世においては、墓参者の姿を墓碑面に映し出すような馬鹿な真似をした墓碑を見かけることは断じて無い。ただ磨けば良いといった短絡な価値観によって作られる墓碑は、もはや近世以来の墓碑の姿の有様を継承していない。墓碑に関わる文化断絶がどこかで起こったと考えられる。それが何時とは今指差すことができない。後考を俟つ。
現代の墓碑面に墓の主人公である人物の伝記が漢文で刻まれる事は無い。もはや漢文で伝記を書くことができる教養を失っている。書かれている漢文を読む能力さえも失った現代人である。新たに伝記資料となる墓碑が現代に立てられる事はまずもってあるまい。
近世期に立てられた墓碑文の文字は毛筆に由来する。それは例外なく毛筆由来の文字なのである。当時の筆記環境は毛筆限定であった。それゆえに断言可能なのである。
毛筆による筆跡をそのままに碑面に再現するように刻むのは石工の腕の見せ所。江戸期も後期になれば、肉筆で描かれたような点画が石の上に再現され、拓本をとれば毛筆手本にそのまま作れるような名碑が数多く作られた。文字の姿を石に刻み後世に残す意図がそこに働いていたと思しい。そんな価値観は現代の墓碑には見ない。故に優れた筆蹟で碑文を作る事は必要とされない。
拓本技術の継承が儘ならないのも、それを発揮するような環境もなくなり、それを肯定する意識も途絶え、文化的退化が毛筆文化世界に起こって現代になっているからなのである。だれも筆跡の優れたものに無関心になり、不感症になっている。毛筆感覚不感症が現代人に蔓延している。
※著者の許可を得て転載しました。
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