南留別志382
荻生徂徠著『南留別志』382
一 代官といふは、もとは国司などの名代なるべし。戦国になりて、文官をひだりにしたるより、今は軽(かろ)き職となれり。
[解説]代官とはその名の通り、君主ないし領主に代わって任地の事務を司る官吏、又はその地位をいう。この名称はさほど古くはなく、徂徠のいうように、武家政権成立以前は国司とその職務を代行した目代のこと。平安時代以降、国司自ら着任することなく国府の政務を代行する遙任(ようにん)という制度が確立し、遙任をした国司より国府に目代という地位が置かれることが一般的となった。鎌倉時代、守護地頭制に基づく武家政権の土地支配の権力構造が成立すると、複数の諸国に守護職を得た御家人が守護代を置くようになり、守護の職権を代行した。室町時代は幕府直轄領の管理者がはじめて代官と称され、守護の代官たる守護代やその代官たる小守護代などとは区別された。江戸時代、幕府の代官は郡代と共に勘定奉行の支配下におかれ、小禄の旗本の知行地と天領を治めた。初期の代官職は世襲であることが多く、在地の小豪族・地侍も選ばれ、幕臣に取り込まれていった。寛永(1624-1644)以降は吏僚的代官が増え、任期は不定で数年で交替することが多くなった。代官の身分は150俵と旗本としては最下層に属するが、身分の割には支配地域、権限が大きかった。諸藩でも代官が設置され、家臣の地方知行の蔵米化が進むと、給人自身に代わって代官がまとめて知行地を徴税、管理するようになった。代官は支配所に陣屋(代官所)を設置し、統治にあたる。代官の配下には10名程度の手付(武士身分)と数名の手代(武家奉公人)が置かれ、代官を補佐した。特に関東近辺の代官は江戸定府で、支配は手付と連絡を取り行い、代官は検地、検見、巡察、重大事件発生時にのみ支配地に赴いた。遠隔地では代官の在地が原則であった。また私利私欲に走るなどで、少しでも評判の悪い代官はすぐに罷免される政治体制になっていた。過酷な年貢の取り立ては農民の逃散につながり、かえって年貢の収量が減少するためである。時代劇では代官といえば決まって「悪代官」が多く、悪役の中心であることが多いが、悪者はごく一部で、現実には組織の一員として、職務を遂行するのに精一杯であり、事なかれ主義は江戸時代には蔓延しており、何事も無く任期を全うしてその次につなげることしか考えなかったから、特定の商人に便宜をはかって賂(まいない)を得るとか、農民をいじめるといったことは皆無ではないものの、限られたものだった。それに、役人を監視する目付の存在があり、なにかあればすぐ中央に通報したから、目付の目を恐れて自重した。幕末に日本にやってきた外国人たちにとって、目付の存在は不思議なものだった。会談の場でも日本側には目付が常に同席し、終始無言。「あの者はどういう立場、役職か」と日本側の出席者に尋ね、「あの者は目付といい、役人に落ち度や不正がないか監視しているのです」と説明すると、「貴公らはそれほど信用できない者なのか」と怪訝な表情をしたという(『旧事諮問録』)。目付は今の監察官に当たるが、監察官は常に公務員に同行し、監視するわけではない。それだけに、江戸時代の役人にとって目付は煙たい存在だった。
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