南留別志300
荻生徂徠著『南留別志』300
一 一町の田よりは、米二十五石とる。此内、正税は一石一斗なり。位田(いでん)職田(しきでん)は、税をいださず。二十五石をみなゝがら納むるなり。太政大臣の職田四十町千石なり。左右の大臣は、三十町七百五十石、大納言は二十町五百石なり。太宰帥(だざいのそち)は十町二百五十石、大弐は六町百五十石、少弐は四町百石、大監、少監、大判事は二町五十石、大工、少判事、大典、防人正、主神、博士は一町六段四十石、少典、陰陽師、医師、少工、笇師(さんし)、主船、主厨、防人佐(さきもりのすけ)は一町四段三十石。令史は一町二十五石。史生は六段十五石なり。大国守は二町六段六十五石。上国守、大国介は二町二段五十五石。中国守、上国介は二町五十石。下国守、大上国掾は一町六段四十石。中国掾(じょう)、大上国目(さかん)は一町二段三十石。中下国目は一町二十五石なり。又位田といふ事あり。一品は八十町二千石。正一位も同じ。従一位は七十四町千八百五十石。二品正二位は六十町千五百石。従二位五十四町千三百五十石。三品は五十町千二百五十石。正三位は四十町千石。従三位は三十四町八百五十石。四品は三十町七百五十石。正四位は二十四町六百石。従四位は十二町五百石。正五位は十二町三百石。従五位は八町二百石。何れも現米の積りなり。令に見えたるは、右の通りなれども、式に文章博士(もんじょうはかせ)の職田五町、算博士の職田あるを見れば、何れの官にも、職田あるなるべし。此外に、禄といふ物、食封といふ物あり。太政大臣にて正一位をかけたらんには、官位ともにいたれるをきはめたれども、現米三千石なり。禄食封などくはへても、二万俵にはいたらじ。国守などは、五位の位田をくはへて、僅に現米二百五六十石なり。紀貫之が土佐守になりたる時、海賊にあはん事をおそれたる、さもあるべしと思はる。総じて郡県の代は、から(唐)も日本も、臣下のゆたかならぬ事なり。かゝる事の様にて、大八洲(おおやしま)のよく治まりつるは、淡海公の制度の徳なりとしるべし。延喜式にのせる供御の品々を見るに、恭倹のいたれる、異国にもあるまじきなり。賢愚は代々にことなれども、制度の力にて、仁倹の徳をうしなはず。古法をよく守れるにて、おだやかにおさまれるなり。
[語釈]
●位田 律令制において、五位以上の有位者と有品の皇族へ位階・品位に応じて支給された田地。 租の納税が義務づけられる輸租田とされていた。 なお、品位に応じて支給された田地は品田(ほんでん)とも呼んだ。
●職田 中央の大納言以上および国司・郡司・大宰府官人などの地方官に官職に応じて支給された田。大宝令では在外諸司のものは公廨田(くがいでん)といったが、養老令ではすべて職田といった。原則として不輸租。この言葉はもともと中国で在任中の官吏に給与された土地のこと。上古の圭田の後身とされ,六朝時代,隋,唐と漸次整備された。唐制では職分田(しきぶんでん)と呼び,京官,外官とも官品に応じ 12~2頃 (けい) と規定され,公田の一種として収穫の約半分にあたる小作料を徴収し,職田被給者の所得とした。日本の律令制は唐制を移したものが多く、この制度も唐制に拠っている。
●淡海公 淡海三船(おうみのみふね)。722~785 奈良時代の漢学者。大学頭(だいがくのかみ)・文章博士・刑部大輔(ぎょうぶのたいふ)を歴任。神武,綏靖,安寧などの歴代天皇の漢風諡号を撰進。文人,学者としては,当時第一級の見識をもって知られた
。
[解説]『南留別志』中、最も長文の段。内容は位田・職田の詳細を列記した資料的なものである。なお、この後にも同様のものが続く。
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