南留別志274
荻生徂徠著『南留別志』274
一 豊成(とよなり)のむすめを中将姫(ちゅうじょうひめ)といふ。心得がたし。女の名に、官名をつく事は、末の事なり。
[語釈]
●豊成 藤原鎌足の曾孫、右大臣藤原豊成。豊成と妻の紫の前(品沢親王の娘、又は、藤原百能)の間には長い間子どもが出来ず、桜井の長谷寺の観音に祈願し、中将姫を授かった。しかし、母親は娘が5歳の時に世を去り、6歳の時に豊成は照夜の前(藤原百能、又は、橘諸房の娘)を後妻とした。
●中将姫 天平19(747)年8月18日- 宝亀6(775)年3月14日)、奈良の当麻寺(たいまでら)に伝わる『当麻曼荼羅』を織ったとされる、伝説上の人物。平安時代の長和・寛仁の頃より世間に広まり、様々な戯曲の題材となった。
[解説]中将姫は美貌と才能に恵まれ、9歳の時には孝謙天皇に召し出され、百官の前で琴を演奏し、賞賛を受ける。しかし、継母である照夜の前に憎まれるようになり、盗みの疑いをかけられての折檻などの虐待を受けるようになる。14歳の時、豊成が諸国巡視の旅に出かけると、照夜の前は、今度は家臣に中将姫の殺害を命じる。しかし、命乞いをせず、亡き実母への供養を怠らない、極楽浄土へ召されることをのみ祈り読経を続ける中将姫を家臣は殺める事が出来ず、雲雀山の青蓮寺へと隠す。翌年、豊成が見つけて連れ戻す。中将姫は『称讃浄土佛摂受経』1000巻の写経を成す。天平宝字7年(763年)、16歳の時、淳仁天皇より、後宮へ入るように望まれたが辞退。二上山の山麓にある当麻寺へ入り尼となり、法如という戒名を授かる。 仏行に励んで、徳によって仏の助力を得て、一夜で蓮糸で『当麻曼荼羅』(『観無量寿経』の曼荼羅)を織ったとされている。宝亀6年(775年)春、29歳で入滅。阿弥陀如来を始めとする二十五菩薩が来迎され、生きたまま西方極楽浄土へ向かったとされる。以上はあくまで伝承であり、さらにいろいろな説がある。
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