南留別志245
荻生徂徠著『南留別志』245
一 如是我聞(にょぜがもん)といふ事は、仏の遺戒にて、何(いず)れの経のはじめにも、是を置きて、阿難の親聞なる事をあらはすといへれども、翻訳の三蔵が、漢語をしらぬゆゑ、梵語(ぼんご)のまゝに翻したれば、かへりて阿難の親聞ならぬやうになりぬ。
[語釈]
●如是我聞 仏典の冒頭に置かれる語。「このように私は聞きました」という意味。 仏の説であることを示すために、釈迦が弟子の阿難に経典の冒頭に冠させたといわれる。
●阿難 釈迦の十大弟子の一人。釈迦の侍者として常に説法を聴いていたことから多聞(たもん)第一と称せられた。梵語ではアーナンダ。
●親聞 したしく聞く。ここでは阿難が直接、釈迦から説法を聞いたことをいう。
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