南留別志237
荻生徂徠著『南留別志』237
一 応神天皇の御像に、今の幞頭(ぼくとう)をきせ奉る事心得がたし。漢の代の冠なるべし。日本武尊、守屋なども、漢の衣冠なるべし。令の比(ころ)より、今の幞頭を用ひしなるべし。され共、袍(ほう)は花山院より以前はかはりあるべし。奈良に孝謙天皇の時の絵あるに、女の装束、唐のやうにて、けごろもをきたりといふ。末摘花(すえつむはな)のかはぎぬも、古代の装束なれば、けごろもなるべし。今の源氏絵は、皆後よりかきたる物にて、まことのすがたをうしなへるなるべし。
[語釈]
●幞頭 律令制で、朝服に用いたかぶり物。中国の唐代に士大夫などが着用した頭巾(ずきん)を模したもの。下図参照。
[解説]応神天皇像としては下図が流布している。徂徠が見た像はどういうものか知れないが、この像が被っているのも幞頭である。日本で幞頭を被るようになったのは律令時代で、それよりはるか以前の応神天皇(『日本書紀』での名は譽田天皇。実在性は定かでないが八幡神として神格化されている)が被っているのはおかしいとし、更に源氏絵巻などの後世に描かれた絵も現実の装束ではないだろうとする。ごく基本的なことで、肖像画や絵巻物を見ただけでそのまま受け止めてしまうのは危険である。
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