南留別志199

南留別志199

一 大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)と、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と国をゆづりたまへるは、ありがたき御事なり。これによりて、自殺したまへるは、吾邦の人の心なるべし。


[語釈]

●大鷦鷯尊 仁徳天皇の和風諡号。 

●菟道稚郎子 生年不詳 - 壬申年没。記紀等に伝わる古代の皇族。父応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊に皇位を譲るべく自殺したことが『日本書紀』に見える。『古事記』では単に夭折と記されている。


[解説]この話で想起されるのは、古代中国・殷代末期の孤竹国(こちくこく、一説に河北省唐山市周辺)の王子の兄弟である伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)の話。高名な隠者で、儒教では聖人とされている。伯夷が長男、叔斉は三男。父の亜微から弟の叔斉に位を譲ることを伝えられた伯夷は、遺言に従って叔斉に王位を継がせようとした。しかし、叔斉は兄を差し置いて位に就くことを良しとせず、あくまで兄に位を継がそうとした。そこで伯夷は国を捨てて他国に逃れた。叔斉も位につかずに兄を追って出国してしまった。国王不在で困った国人は次男の仲馮を王に立てた。戦乱ののち殷は滅亡し、武王が新王朝の周を立てた後、二人は周の粟(ぞく)を食(は)む事を恥として周の国から離れ、首陽山に隠棲して山菜を食べていたが、最後には餓死した。司馬遷は『史記』列伝の冒頭に二人の伝記を立てたほか、水戸光圀は生来放埓な人柄だったが、ある日『史記』の伯夷叔斉列伝を読み、自分には兄がいながら父は自分をかわいがって水戸の藩主とし、兄は高松へやってしまったことを知って愕然とし、兄の子を自分の養子にして家督を譲り、我が子を兄の養子にして高松の後嗣にしたといわれている。目上の者を立てる長幼の序の実例としてよく引き合いに出される。仁徳天皇についての事蹟は先行する中国のこういった話が元になっているものが少なくないとされているが、徂徠はこれぞ日本人の心であると評価している。


莵道稚郎子(『前賢故実』より)

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