南留別志192

荻生徂徠著『南留別志』192

一 荒木氏何某といふ人、御使に奥州に下りしに、其少し前に、光堂の仏の目にいれたる金を、人の盗みし事あるを、僉議(せんぎ)するとて、秀衡(ひでひら)が棺をあばきたり。棺五重ばかり、外の棺はぬりたり。内の棺一重は、桐の白木也。秀衡が死骸い(生)けるが如し。年のほど五十余、たけ(丈、身長)は中人の少しひきゝ(低き)なり。髪は三四許(ばかり)おひたり。ひえがら(稗殻)のやうなる物にて、棺をつめたり。五百年許(ばかり)なるに、形の損ぜざるは、此物の徳にや。かたはらに、泉の三郎が棺、是はしたゝなるしやれかうべ(しゃれこうべ。骸骨)ひとつありけりとぞ。秀衡が棺の内より、まくら一ツ、太刀一ふり出(い)だしおきて、国主の者ども、荒木何某に見せたるなり。荒木氏は、馬をよくのりたれば、それを習ふとて、若藤杢左衛門(もくざえもん)といふ人、奥州までしたがひ行きて見たりとて、茂卿が幼き時かたりき。枕はつねのくゝり枕なり。ふさ(房)までも、深紅なるが、手にてさは(触)ればでうのごとく、手につくとなん。太刀は二尺ばかり、つば(鍔)もかうのなりにて、三まいつばなり。柄(え)はしんく(深紅)の糸にてま(巻)きて、中ひし(中菱)なり。さめにゝしき(錦)をさせたり。柄がしらはひきとほし(引き通し)なりといふ。さびつきてぬけずとかた(語)りき。奇怪の物語なり。


[解説]メモとして書き付けたものをまとめた本書は短文が大半だが、この条は二番目に長いものである(ほかに同じ長さのものがもう一つある)。荒木という役人が平泉の中尊寺光堂(金色堂)の仏像の金製の目を盗んだ者があるということから僉議(捜査)のため秀衡の棺を開封した。その時の様子を聞き書きしたもの。なお、安置されている遺体は、寺伝では中央壇・左壇・右壇の遺体が順に清衡、基衡、秀衡のものとされていたが、1950年に実施された学術調査で寺伝と逆に、左壇の被葬者が秀衡、右壇の被葬者が基衡であるとするのが定説となっている。これが正しい場合、徂徠の聞いた話も被葬者は旧来の寺伝に拠るため、基衡の棺ということになる。


[Wikiより]遺体がミイラ状になって保存されていることについて、何らかの人工的保存処置によるものか、自然にミイラ化したものかは解明されていない。学術調査団の一員である長谷部言人は報告書『中尊寺と藤原四代』の中で、遺体に人工的処置が加えられた形跡はないという見解を述べている。それに対し古畑種基は人工加工説を唱えている。遺体には内臓や脳漿が全く無く腹部は湾曲状に切られ、後頭部には穴が開いていた。裂け目にはネズミの歯形が付いていたが、木棺3個とも後頭部と肛門にあたる底板に穴が開けられており、その穴の切り口は綺麗で、腐敗した内臓・体液をはじめとする汚物が流出した痕跡はなかった。男性生殖器も切除されており、加工の痕跡は歴然であるとした。「古代文明の謎と発見5 ミイラは語る」(毎日新聞出版)の中では、内臓が残っていないのをネズミに食べられたためとするなら内臓の小片(食べ残し)すら残っていないのはむしろ不自然である事、葬る際に遺体が腐敗して堂内に腐敗臭が充満する事や、蛆等が発生して堂内に溢れる可能性を全く考慮せずにただ棺に入れて納めたら都合よくミイラになっていた、という事があるだろうかという点で、自然ミイラという説に疑問を呈している。これは、3体のミイラとも指紋には渦紋が多く、頭が丸顔でかみ合わせも日本人的で、3体とも日本人の骨格であると推定されたことから、極めてアイヌ民族に似た慣行である有力者のミイラ作りと藤原氏のミイラを関連付けるかの問題が関わっている。森嘉兵衛は、何代かの和人との婚姻で藤原氏の骨格は日本人化したが、精神や葬祭の慣行でアイヌ民族の風習が残ったのではないかとしている。なお、遺体や棺が人目に触れたのは1950年の学術調査時が初めてではなく、江戸時代にも堂の修理時などに棺が点検された記録がある。相原友直が安永年間(1772 - 1780年)に著した『平泉雑記』によれば、元禄12年(1699年)、金色堂の修理時に棺を移動している。

過去の出来事

過去の本日の朝廷や江戸幕府の人事一覧、その他の出来事を紹介します。ほかに昔に関する雑記など。