南留別志189
荻生徂徠著『南留別志』189
一 国司といふは、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)に、皆いふ事なり。
[語釈]
●国司 こくし、くにのつかさ。古代から中世において、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)を指す。守の唐名は刺史(しし)、太守(たいしゅ)など。中央では中級貴族に位置する。国司は国衙(こくが=国司が政務を行う役所のある地)において祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。江戸幕府成立以降は、大名や旗本、一部の上級陪臣が幕府の許可を得た上で、家格に応じて国司名を称することが行われた(武家官位)。しかしこれらの「名乗り」は名目上のものであったため、同時期に複数の人物が同じ国司名を名乗ることも多かった。ただし、国持(くちもち)大名が自分の領国の国司を名乗るのは一種の特権とされており、小倉藩から熊本藩へ加増転封されて肥後国主となった細川忠利は息子光尚の元服時に「肥後守」を名乗れるよう運動している。
画像は1920年(大正9年)、樋畑雪湖が第一回国勢調査記念切手の図を制作するに際し、『日本書紀』大化元年9月の「甲申、遣使者於諸国録民元数」(かのえさる(の年)、使者を諸国に遣わして民の元の数を録せしむ)の記述から高橋健自とともに再現した大化年間の国司の姿。
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