南留別志162
荻生徂徠著『南留別志』162
一 古は、皆進士より官人となれるゆゑ、己が氏人の内より、官人多く出でん事を願ひて、藤原氏は勧学院、源氏は淳和弉(奨)学の両院を作り、其学政を氏の長者が司(つかさど)りしなり。
[語釈]
●進士(しんし) 律令制において式部省が行った秀才・明経に次ぐ第三の官吏登用試験。進士試(しんしし)とも。秀才などに比較して及第者に対する叙位が低い一方で、出題が難問(暗記形式の帖試は甲第が全問、乙第が6問以上の正答を必要)であったために志願者が少なく、平安時代の貞観年間に廃止され、「進士」の呼称は漢文作成の試験で選抜された紀伝道学生である文章生に対する別称となった。
●勧学院(大学南曹) 藤原氏によって弘仁12年(821年)に創建され、貞観14年(872年)以前に公認。藤原氏の施設。「勧学院の雀は蒙求を囀る 」ということわざで有名。
●淳和院(じゅんないん) 平安京の右京四条二坊(現在の京都府京都市右京区)にあった淳和天皇の離宮・後院。後に源氏長者が奨学院(大学別曹)とともに別当を務めた。別名・西院(さい/さいいん)
●奨学院(大学南曹) 在原行平により元慶5年(881年)創建され、昌泰3年(900年)に公認。王氏の施設。
[解説]律令時代の官吏登用試験は難問の上に科目によっては全問正解で合格といったように超難関だった。そのため、各貴族はそれぞれに大学のような学問所を設け、自分の氏からできるだけ多くの官吏を出そうとした。こうなると学問も一家の栄達、繁栄のためのものとなり、試験は方法や出題をいたずらに難しくしても、それに受かるための要領のいい学び方へと変質する。進士とは中国の高等文官試験「科挙」をトップで受かった者に与えられた称号で、進士はただちに官吏に任用された。科挙も当初は為政者が貴族の中から選ばれたことによるさまざまな弊害を打破するために、身分や門閥に関係なく誰でも受験出来、良い人材を得ようとするためのものとして隋の時代に始まった。当初は試験も少なく、単純であったが、受験者の増加や、官僚の席に空きがなくなってきたことにより、試験に次ぐ試験、本試験の前に予備試験といったようにいくつもの試験を通過しなければならなくなり、問題もいかに落とすかといったことで難問奇問が出されるようになり、政治家として有能なのに試験が苦手な者が何度受けても落ち、要領のいいのが受かるといった弊害が時代とともに増えた。日本は科挙をそのまま輸入して模倣することはなかったが、律令時代には少しは必要性を理解したようで、真似事のようなことはした。しかし、結局は貴族社会から脱却するといったことは考えもしなかったから、次第に形式的なものとなり、武家の天下となるとともに消滅した。
江戸時代には吟味素読といった武士認定の試験があった。あまり知られていないが、武士の子は武士という身分そのものは約束されていたが、公務員である藩士として実務に就くためには、武士としての素養があるかどうかが審査される。素読というように漢学の素養が中心。これに合格しないと、公職に就くことはできないし、家督相続も認められない。一生、部屋住み(無職)で妻帯もできないまま終わる。科挙は別に受からなくても、その人本来の職、家業を続ければいいが、江戸時代のそれは「士であるか否か」を見極められてしまうため、落第すると人生まで真っ暗になる。再受験は認められていたが、何度も受けるのは恥ずべきことで、せいぜい二度まで。昔は身分の高い者ほどいろいろ窮屈だった。
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