南留別志69
荻生徂徠著『南留別志』69
一 諷誦(ふじゅ)を請ふ文といふ事を、文粋に誤りて、うくる諷誦文と点をつけたり。それよりして、世の人、諷誦文(ふじゅもん)といふ物なりと思へり。諷誦とは、読経の事なり。僧に読経をして給はれと請ふ意に、俗家より書てつかはす文なるを、請の字をうくるとよみ違へ、はては、僧の作る事にしたるは、俗家文盲になりて、えくくらねば、僧を頼みて作らせたるなるべし。今の世までも、諷誦かきたる布施のみを、談講師の物にするは、潤筆の意なるべし。
[解説]諷誦は読経のことで、諷誦文は死者の供養などのために,僧侶に読経を頼む文書のこと。三宝に供え、布施物や布施の趣旨などが記入されている。平安時代以来の風習で,これを受けた僧は読経のあとでこの文書を読上げる。本朝文粋の当該箇所は未見だが、「諷誦を請う文」(原文は請諷誦文となっているはず)を読み違え、返り点の位置をも誤って、「諷誦文を請う」としたままになっているようだ。諷誦文は読経をお願いする側が作成するものだが、「諷誦文を請う」としてしまうと、僧侶に布施として納める金品の一覧や読経を依頼する趣旨をお願いするということになり、はなはだおかしなこととなる。しかし、この誤りがそのままにされたのは、徂徠の説では、次第に一般人が平安以来の風習にうとくなり、文書を作成することもしなくなったため、諷誦文も僧侶にお願いして書いてもらうのが当たり前になったからであろうという。現代なら供養の仕方をはじめ、いろいろな解説書や案内書があり、ネットでも調べることができるが、全くそういうことがなかった当時は熟知する人に聞くしかなく、身近にそういう人がいないと、うろ覚えでやるしかない。しかし、頼りないことをしては失礼だし、いっそのこと、諷誦文もお坊さんに書いていただこう、ということも多かったのではないか。なにやら滑稽な話ではある。「諷」の字は「諷刺」「諷喩」など「フウ」と読むが、仏教用語では「フ」と読む。複数の僧侶が一斉に読経をすることを諷経(ふぎん)と言う。単独の読経だと息継ぎで時々止まるが、諷経はそれがカバーされるため、滔々と流れるように響き、聴いていて気持ちの良いものである。
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