南留別志65

荻生徂徠著『南留別志』65

一 古今の序は、真名の序をつくりて後に、それによそへて、かなの序をつくれるなり。文の体格かなの文章にあらず。


[解説]『古今和歌集』にはいわゆる真名序と仮名序の二つが添えられている。前者は紀淑望(きのよしもち)作、後者は紀貫之(きのつらゆき)作。貫之は『古今集』の撰者も務めた。当時は公文書から日記類まで漢文体が使われ、和語も漢字で表記した。これを真名という。一方、ひらがなによる表記も和歌をはじめ、おもに私的な作品や記述で広まりつつあった。『古今集』はご丁寧に漢文体と和文体の両方の序を添えてあり、長く仮名序のほうがよく読まれてきた。「やまとうたは人の心を種としてよろづの言の葉とぞなりにける」という冒頭文は和歌の本質を表わしたものとして有名であり、この一文を見ただけで『古今集』の仮名序であるとわかるのは常識にさえなっているほど。『古今集』は紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人が撰者だが、中心となったのは貫之とされている(紀友則は完成前に死去)。そのため、仮名序は『古今集』ひいては和歌というものについて詳しく述べられたものとして尊ばれているが、徂徠は異議をさしはさんでいる。一般に、真名序は当時らしく体裁を整えたもので、いわばお飾り的なものであり、仮名序こそ言いたいことがこめられているとされているが、徂徠はまず真名序が書かれ、その後に真名序になぞらえて書かれたのが仮名序であり、文体からして仮名序は仮名の文体(和文)ではない、と断じる。この説の通りであれば、仮名序ばかり礼賛したり尊ぶのは誤りで、真名で書かれた序こそが重いものであるということになる。漢学者らしい見方であるが、「文の体格」を以て仮名序は真名序より下、といったようなことにはならないのではないか。

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