南留別志63

荻生徂徠著『南留別志』63

一 田中、大石、田口、三枝、山辺、巨勢、服部、石川、滋野などの類、苗字なれ共(ども)、姓なるべし。内藤、斎藤の類もあるなれば、別に姓を求むるは僻事(ひがごと)なるべし。


[解説]苗字(名字)も姓も、さらには氏(うじ)現在では同義で使われているが、本来はそれぞれ由来があり、全く別物であった。

まず氏。本姓ともいい、共通の祖先を持つ、あるいは共通の祖先を持つという意識のもとに結束した集団(氏族)が名乗るもの。「蘇我」「物部」「吉備」「大伴」「藤原」「源」「平」「橘」「紀」「菅原」「大江」など。このうち、「蘇我」「物部」「吉備」「大伴」などは大和朝廷を支えた豪族がその根拠地の地名や朝廷内での職掌などからつけられたもの、「藤原」「源」「平」「橘」などは、天皇が功績のある臣下に特別に与えたり、諸皇子を臣籍降下させる際に与えたりしたもの。これら氏には「の」をつけるならわしがあり、藤原道長は「ふじわらのみちなが」、紀貫之は「きのつらゆき」といったように読むのはそのため。

姓(かばね)は、朝廷から氏族に対して与えられたもので、本来は大和朝廷内における各氏族の職掌や地位を示す称号で、蘇我氏の姓は「臣」(おみ)、物部氏の姓は「連」(むらじ)などどいう具合。それぞれの有力者が「大臣」「大連」に任じられて天皇を補佐するなど、実際の政治上も意味のあるものだったが、天武天皇が「八色の姓」という制度を定めて「真人」や「朝臣」など新しい姓を作って従来の「臣」「連」の上に置き、天皇に近く忠誠度の高い氏族にその新しい姓を与えることで他の氏族との差別化をはかった。が、次第に有力貴族の姓はみな「朝臣」になってしまい、あまり意味のないものとなり、姓は氏の単なる付属品のようなものになった。形式的には姓は存続し、朝廷における公式文書で名前を記す際には名字ではなく氏と姓を用いた。徳川家康ではなく、源朝臣家康(みなもとのあそんいえやす)といったように江戸時代まで続いた。

名字。貴族・豪族・武士たちの氏は、源平藤橘など一部の有力な氏に集中することになり、もはや、氏は共同体としての氏族集団をあらわすものではなくなり、氏とは別に自身が所属する血縁集団を示すものが必要になった。特に武士は世の中、源氏だらけになってしまったので、どこの源氏かを表わす必要が生じた。そこで、武士であれば自分の所領の地名を、公家であれば邸宅のある地名を、自身の家族の名前として称するようになった。これが名字(苗字とも)。たとえば、八幡太郎として有名な源義家の孫、源義康は上野国足利荘を相続したので「足利」という名字を名乗り、義康の異母兄である義重は上野国新田荘を開墾して「新田」という名字を名乗るようになった。名字には「の」はつけない。足利尊氏は「あしかがたかうじ」であり、「あしかがのたかうじ」とはよまないように。以上を踏まえて徂徠の文章を読めば、何が言いたいかもおわかり頂けよう。

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