南留別志49

荻生徂徠著『南留別志』49

一  政子の淫乱の迹(あと)伝はらぬは、広元が諱(い)みしなるべし。頼家、実朝、義時、和田、秩父までも終りをよくせざるは、しるせる外に子細あるべし。淫毒にあらざらましかば、かゝるいはれなき事はあらじ。


[語釈]

●政子 北条政子(ほうじょうまさこ)、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。周囲の反対を押し切り、伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所(みだいどころ)と呼ばれ、夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。 

●広元 大江広元(おおえ の ひろもと)、平安末期から鎌倉初期にかけての朝臣。はじめは朝廷に仕える下級貴族(官人)だったが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、鎌倉幕府の政所初代別当を務め、幕府創設に貢献した。 

●頼家 源頼家(みなもとのよりいえ)、鎌倉前期の鎌倉幕府第2代将軍。幕府を開いた源頼朝の嫡男で母は北条政子。 父・頼朝の急死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、征夷大将軍となる。 

●実朝 源実朝(みなもとのさねとも)、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍。頼朝の嫡出の次男として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。 

●義時 北条義時(ほうじょうよしとき)、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の第2代執権。伊豆国の在地豪族・北条時政の次男。北条政子の弟。得宗家2代目当主。 源氏将軍が途絶えた後の、鎌倉幕府の実質的な最高指導者。 

●和田 和田義盛(わだよしもり)、鎌倉初期の武将。三浦義明の孫。源頼朝の挙兵以来軍功を重ね、幕府初代の侍所別当となった。のち、北条氏の謀計(挑発)により挙兵して敗死、和田氏は滅亡した。 

●秩父 畠山重忠(はたけやましげただ)、平安末期から鎌倉初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して治承・寿永の乱で活躍。知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。武蔵掌握を図る北条時政の策謀により、北条義時率いる大軍に攻められて滅ぼされた。畠山氏の所領は政子によって重忠を討った者や政子の女房に配分。義時・政子の姉妹である重忠の妻には畠山氏本領が与えられ、その妻は北条氏の縁戚足利義純に再嫁し、足利義純が畠山氏の名跡を継承した事により、重忠の血筋は断絶した。


[解説]尼将軍北条政子について、『吾妻鏡』は「前漢の呂后と同じように天下を治めた。または神功皇后が再生して我が国の皇基を擁護させ給わった」と政子を称賛しているように、比較的時代の近い後世の評価はとても高かった。しかし、江戸時代になると儒教倫理の影響もあり、水戸光圀が創設した『大日本史』や新井白石、頼山陽など、頼朝亡き後に鎌倉幕府を主導したことは評価しつつも、子(頼家、実朝)が変死して婚家(源氏)が滅びて、実家(北条氏)がこれにとって代ったことが婦人としての人倫に欠くと批判。政子の嫉妬深さも批判の対象となる。政子を日野富子や淀殿と並ぶ悪女とする評価も出るようになった。徂徠に至っては「淫乱」と断じているが、それを示す記録が伝わらないのは、大江広元がそのようにさせたのであろうとする。頼家以下秩父氏(重忠)まで、いずれも死に方や死後が悲惨だったのは、「政子の淫毒にかかったからで、もしそうでないというのなら、このようないわれのない事は起きるはずがない」として、政子を完全に悪女とし断じている。


北条政子(菊池容斎画、江戸時代)

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