南留別志48

荻生徂徠著『南留別志』48

一 神功(じんぐう)皇后は呂后(りょこう)に似たる人なり。帝位につかざる事は、女帝をたつることは、神代よりの戒(いましめ)なるべし。守屋と、馬子が争論は、此事(このこと)なるべし。さなくば、神功の后にて終り給へるやうやあるべき。日本紀は、女帝の世に作れば、此事を諱(い)みかくしたるなり。天照大神(アマテラスオオミカミ)を女帝といへるも、旧事紀は、推古の時に作り、日本紀は、持統(じとう)の世に作れば、子細あるべしと思はる。おのころ島を淡路島なりといへるも、皆ひとゝころにつどふやうなり。


[語釈]

●神功皇后 記紀(古事記と日本書紀)に伝えられる仲哀天皇の皇后。名は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)。仲哀天皇の没後、懐妊のまま朝鮮半島に遠征し、帰国後に応神天皇を出産、皇太子に立てて,約 70年間皇太子の摂政としてみずから政治をとったといわれる。また『日本書紀』は皇后を暗に『魏志倭人伝』にみえる女王卑弥呼に擬している。陵墓は奈良県奈良市の狭城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのへのみささぎ)。 

●呂后 ?~前180 中国、前漢の高祖劉邦(りゅうほう)の后。姓は呂、名は雉(ち)。字(あざな)は娥姁(がく)。高祖の子恵帝(けいてい)の死後、政権を掌握し、自分の一族を諸侯に封じたため、死後、呂氏の乱を招いた。 

●守屋 物部守屋(もののべのもりや)。飛鳥時代の大連(おおむらじ。有力豪族)。敏達天皇元年(572年)、天皇の即位に伴い、守屋は大連に任じられた。 

●馬子 蘇我馬子(そがのうまこ)。飛鳥時代の政治家、貴族。邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれた。敏達帝の時に大臣に就き、用明、崇峻、推古の4天皇に仕え、54年にわたり権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築いた。587年、馬子は対立する守屋を滅ぼした。「守屋と、馬子が争論」とは、仏教の受容に積極的な馬子と反対する守屋のあいだの戦い(崇仏論争)のことで、これにより守屋は滅ぼされた。

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