南留別志37
荻生徂徠著『南留別志』37
一 今の俗に用ふる位牌は、儒家の制なり。明(ミン)の会典に、雲首(うんしゅ)の式あり。今の儒者は、家礼の法を守る。程朱(ていしゅ)の法にて、古礼にはあらざるなり。神主の制など、寒酸に過ぎたるゆゑ、明には用ひざるなり。まして、世禄の国には、用ひがたく覚ゆるなり。
[語釈]●明の会典 『大明会典』(だいみんかいてん)。中国明代の洪武26年(1393年)、洪武帝が『唐六典』に倣って制定した法律。孝宗の弘治10年(1497年)、歴代の典制がまとまっておらず相互に食い違いがあり、運用が難しいのを見て、詔して編集させた。六部の官職を中心として、各行政機関の職掌と実例を記述している。一官職ごとに関係する法律を記載し、事例を載せている。該当する法令が無い場合は、事例のみを載せている。国家の行政機関や職責の行政を調整する法典。 ●程朱 北宋の程頤(ていい)と南宋の朱熹(しゅき)。朱熹(儒家では尊んで朱子と言う)が儒教の再構築をしたが(=朱子学)、朱熹は程頤を先駆者として位置付けた。後世、程頤と朱熹の学問思想を程朱学(程朱理学)として一つの学派とした。徳川幕府は儒教を国教のごとく崇め、奨励したが、特に論語を重視し、その解釈として朱子の注釈書を採用したことから、わが国の知識階級では朱子学が大いに行われた。但し、伊藤仁斎や荻生徂徠らは朱子学に批判的であったほか、次第に陽明学を信奉する者が出て、幕末の動乱の原動力のようになったほど。徂徠によると、位牌は朱子学者らの制度で、それ以前からあったものではないとする。朱子学者らの制度、しきたりであったことから我が国でもすぐに広まり、神道式は寒酸、つまりみすぼらしいために広まらず、ましてや世襲の国(大名家など)ではなおさら貧乏な式よりも見栄えのするものがよいことから、位牌が盛んに用いられるようになり、高位な者ほど大きく豪華になったが、このように今、世俗で用いられている位牌は、もともとは儒家の定めたものであるという次第。
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