南留別志18
荻生徂徠著『南留別志』18
一 侍烏帽子(さむらいえぼし)、素襖(すおう)といふ物は、古にはなき事なり。正盛が郎等(ろうどう)をほういのものといへり。頼朝卿まなづるを落ちたまひし時、主従七人の烏帽子を折らせたるに、頼朝卿のばかりを誤りて、左折にをりたり。残六人も折烏帽子きたりと見えたり。六位も侍なり。何とて無位のもののかぶるのみを、侍烏帽子といふべき。くだりての世の詞と聞ゆ。今、冠つくるものの家に、侍烏帽子にも、左折、右折のあるは、後につくれるなるべし。
[解説]烏帽子は平安時代から江戸時代にかけての男性の礼装における帽子のこと。烏帽子にもいろいろ種類があり、最も格式がある、高位の人がかぶるのが立烏帽子(図1。広橋兼勝肖像)。これに次ぐのが折烏帽子(図2。折烏帽子:多賀高忠肖像)。江戸時代になると、元和元年(1615年)の幕府の服制により、素襖が無位無官の旗本の礼装と定められた。旗本の中でも従四位下の高家と従五位下の諸大夫は大紋を礼装とし、無位無官だが幕府より布衣(ほい)の格式を許された旗本は六位相当とみなして布衣を礼装とし、これ以外の旗本は平士といって素襖を礼装とした。素襖とともに折烏帽子をかぶったが、江戸時代にはこれを侍烏帽子と言った。徂徠は、こういう装束は先の婿養子にして家督を相続する制同様、源頼朝の時より前にはなかったものであるとする。実際、そのようである。
図1
図2
図3
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