南留別志14

荻生徂徠著『南留別志』14

一 追放といふは、割拠の世の事なり。


[解説]刑としての追放のこと。追放が登場したのは鎌倉時代の『御成敗式目』からで、この当時は流刑のほうが多く、追放は軽いものとしてあまり執行されなかったようである。流刑は流刑先が指定され、離島のように脱獄が不可能な所であったり、軟禁状態に置かれ常時監視されて過酷だったが、追放は居住地から追い払うことが目的で、どこへ行こうとそこまでは関知せず、監視もしないという緩やかなものだった。しかし、江戸時代になると重・中・軽をはじめ、すべて6種類の追放が規定され、重追放になると家屋敷や田畑などの没収も付加され、居住してはならない地域も細かく定められた。以下、Wikipediaより。


徳川吉宗が将軍であった時代に『公事方御定書』が編纂された。その結果、江戸幕府による追放刑は6等級及び1つに整理され、御構場所(立入禁止区域)と闕所(財産没収の付加刑)の範疇によって軽重が定められた。

1.重追放:住居の国(居住していた国)・犯罪の国(事件を起こした国)及び武蔵国・山城国・摂津国・和泉国・大和国・肥前国・下野国・甲斐国・駿河国・相模国・上野国・安房国・上総国・下総国・常陸国の15か国並びに東海道筋・木曽路筋を御構場所とし、更に闕所として田畑・家屋敷・家財を没収。

2.中追放:住居の国・犯罪の国及び武蔵国・山城国・摂津国・和泉国・大和国・肥前国・下野国・甲斐国・駿河国の9か国並びに東海道筋・木曽路筋・日光道中を御構場所とし、更に闕所として田畑・家屋敷を没収。

3.軽追放:住居の国・犯罪の国及び江戸十里四方・京・大坂・東海道筋・日光・日光道中を御構場所とし、更に闕所として田畑を没収。「江戸十里四方」の定義については江戸十里四方追放を参照のこと。

4.江戸十里四方追放:居住地及び江戸日本橋から5里の圏内を御構場所とする。後者に該当する江戸を中心とした東西南北それぞれ10里の範囲にわたる地域を「江戸十里四方」と称した。

5.江戸払:居住地(町方は居町・地方は居村)及び江戸市中(品川・板橋・千住・四谷大木戸よりも内側と深川・本所の両地域)を御構場所とする。

6.所払:居住地を御構場所とする。

7.門前払:即座に奉行所の門前から叩きだすこと。『公事方御定書』に規定された追放刑ではないものの、その派生とする見方がある。

追放刑は武士・庶民を問わず適用され武士は「浪人」・庶民は「無宿」とされたが、庶民の場合には延享2年(1745年)以後は軽追放以上の場合には住居の国・犯罪の国及び江戸十里四方のみを御構場所とした。また、闕所は江戸十里四方追放以下には適用されなかったが、財産に関する犯罪の場合にはそれらの対象者に対しても田畑・家屋敷の闕所が実施された。

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