南留別志12
荻生徂徠著『南留別志』12
一 入道したるものの、姓氏を名のる事は、なき事なり。入道は、僧なるゆゑ官も僧官なり。国初の頃までは、医師の苗字をのぞきたるなり。寛永の頃より苗字をいひいで、元禄の頃よりは、院号も苗字をつけて名のる。大かたは、玄関につめたる、文盲男に問ひつめられたるより、名乗初めたるなるべし。下部の鎗挟箱(やり・はさみばこ)など持ちたるものも、昔は、つくばひ居たるを、元禄の頃より、皆立ちはだかりぬ。礼なき世には、下より礼を作り出てて、上もそれに習ふぞ悲しき。
[語釈]●入道 仏門にはいること。仏門にはいった三位(さんみ)以上の人。
[解説]江戸幕府が開かれた頃は、僧はもちろん、僧形(剃髪し僧衣をまとう)を命じられた医師も苗字は名乗らなかった。ところが、寛永の頃には苗字を言い、更に元禄の頃になると院号にさえ苗字をつけるようになった。徂徠はこれについて、言葉を知らぬ玄関番が取り次ぎの必要上苗字をいちいち聞いたことから、いつしか僧や医師のほうから苗字も名乗るようになったのだろうとする。また、鎗持ちや挟箱持ちといった下僕は、昔は蹲踞(そんきょ)して控えていたのが、元禄の頃には立ったまま控えているのが当たり前の風潮となった。これらは下の者たちによって作られた形で、それを上の者たちも真似るようになった。礼節のない世とはこのようなもので悲しいことだとする。ちなみに、学者も初期には僧形であった。
のちにキリシタン大名となる大友宗麟の肖像(瑞峯院所蔵=下)。それまでは仏門に帰依しており、入道姿をしていた。「宗麟」も法号である。入道となると「宗麟」の法号だけでよいのだが、知らない人にはどこの誰かが分からない。そのため「大友」を名乗らざるを得ない、というのが徂徠の嘆き。
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