南留別志4
南留別志 4
一 論語を円珠経(えんじゅきょう)といへるは、五山(ござん)の僧の云ひ習はしたるにやと思ひしに、曽我物語に見えたれば、博士の家の詞(ことば)なるべし。円珠の意は、皇侃(おうがん)が義疏(ぎそ)の序に見えたり。
[解説]『論語』の異名として『円珠経』というのがある。これについて、徂徠は鎌倉時代の学問の府でもあった京都と鎌倉それぞれ五つの寺で言い慣わしていたものと思っていたが、『曽我物語』に『円珠経』という書名が出ていることから、もっと古く、平安時代の博士家(ここでは明経(みょうぎょう)博士)で使われていたのであろうとする。博士家は大学寮の教官を担当する家で世襲。学科として、紀伝道 (文章道) では,菅原氏,大江氏,ほかに藤原氏の南家,式家など。明経道は中原,清原の両氏,明法道に中原氏,坂上氏。算道は小槻 (おづき) 氏,三善氏。同一道のなかでも家によって教説の特色をもち,それを秘伝とする,いわゆる家学を形成するようになる。漢文の訓読も家ごとに違っていた。これらの博士家およびその家学は,ほぼ 11世紀末には確立し,中世以降の家学の源流をなした。皇侃の義疏は『論語』の古い注釈書の一つ。疏(そ)とは、先行する注に対して注解を加えたもの。皇侃[488~545]は中国、南北朝時代、梁(りょう)の学者。呉郡(江蘇省)の人。武帝に仕え、国子助教となる。経書の古注釈を集め、多くの義疏を残した。南北朝時代は中国史上もっとも風紀が乱れ、各王室では陰惨な権力闘争に明け暮れた。政治は権力を持った貴族らの専有物となったが、一方、この状況は不思議なことに庶民にとっては強権による迫害や弾圧がほとんどなく、政治に対する発言権がなかったかわりに被害を受けることもなく、結果的には平和であった。学問芸術がこの時代に華やかとなり、発達したのも、そういった時代相に関係している。
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