1926年5月9日
1926年5月9日 大正15年
【内 閣】
第1次若槻礼次郎内閣
総理 若槻礼次郎/外務 幣原喜重郎/内務 若槻礼次郎/大蔵 濱口雄幸/陸軍 宇垣一成/海軍 財部彪/司法 江木翼/文部 岡田良平/農林 早速整爾/商工 片岡直温 /逓信 安達謙藏/鉄道 仙石貢/内閣書記官長 塚本清治/法制局長官 山川端夫
【元 老】
西園寺公望
【宮中主要官】
内大臣 平田東助/宮内大臣 牧野伸顕/枢密院議長 浜尾新/枢密院副議長 一木喜徳郎
【軍部高官】
[陸 軍]
陸軍次官 白川義則/軍務局長 畑英太郎/参謀総長 河合操/参謀次長 武藤信義/教育総監 大庭二郎
[海 軍]
海軍次官 岡田啓介/軍令部総長 山下源太郎
【植民地高官】
朝鮮総督 斎藤実/台湾総督 内田嘉吉/関東長官 児玉秀雄/樺太庁長官 永井金次部/南洋庁長官 横田郷助
満鉄社長 安広伴一郎
【東 京】
府知事 宇佐美勝夫/市長 中村是公
【国際連盟】
事務総長 ジェームズ・ドラモンド (第7代パース伯爵=英)/事務次長 新渡戸稲造
銀座の松屋デパートで日本初のビルからの飛び降り自殺。
松屋の8階から池野富蔵という男性が飛び降り自殺。藤江という女性に捨てられたためとみられる。
遺書「僕の身は死しても心霊は藤江の身を離れない。そして藤江の兄を恨む、母も恨む、終りに藤江も恨みたい気もする。しかし愛が勝っているようだ。お願いだから一緒の所に葬ってくれ。藤江もそう思ってくれ。僕は今酒を飲む。」
これが引き金となり、各地で同様の自殺が相次ぎ、手を焼いた警察は見せしめ的に死体をしばらく放置して食い止めようとした。
アメリカの軍人リチャード・バードとフロイド・ベネット、フォッカー単葉機で最初の北極点飛行に成功。往復1,500マイルに15時間。
使用機はフォッカー3発機「ジョセフィン・フォード」号。スピッツベルゲンのキングスベイから北極点までを15時間で往復した。1927年にはフォッカー3発機「アメリカ」号でオルティーグ賞の懸った大西洋横断飛行に挑戦するが、事故などで出発が遅れ、横断に成功(ただしノルマンディーに不時着)したのはリンドバーグの1か月以上後の6月29日-7月1日だった。また、1929年11月28日から29日にかけて、南極大陸ロス氷原のリトル・アメリカ基地から南極点までの往復と初の南極点上空飛行に成功した[1]。乗務員はバードを含め4名。使用機はフォード4AT・3発機「フロイド・ベネット」号。飛行時間は15時間51分。この南北両極への飛行成功により、国民的英雄となった。その後、1946年から1947年にかけてのハイジャンプ作戦をはじめ、1939年から1950年代まで5度にわたるアメリカ海軍の南極調査の指揮をとった。
米海兵隊、ニカラグアに上陸。6.5 撤退。
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