斉諧俗談87
斉諧俗談 87
〇劉寄奴草[りゅうきぬそう]
南史(なんし)に言う、宋の高祖皇帝劉裕(りゅうゆう)が若かりし時、荻[てき]を討った。その後、新州で一匹の大蛇に出会い、これを弓で射た。翌日、その場所に来てみると、杵で臼を突く音がする。よく見ると、青い衣を着た童子数人が、はしばみの林の中で薬を搗いていた。「何をしているのか」と尋ねると、「私たちの主人が昨日、劉寄奴[りゅうきぬ]のために弓で射られたのです。そのため薬を作り、傷に塗るのです」と言った。裕が言った、「そなたたちはどうして裕を殺さないのか」童子が答えた、「寄奴は王だから殺してはならないのです」と。裕はしきりに主人の仇、つまり自分を討つように叱ったが、童子たちは散り散りに逃げてしまった。裕はその薬を持ち帰り、切り傷や刺し傷につけたところ、治らない傷はないほどよく効いた。そこで、この薬草を劉寄奴草と名付けたということだ。
[語釈]
劉 裕 南朝の宋の初代皇帝。廟号は高祖、諡号は武帝。字は徳輿。幼名は寄奴。徐州彭城郡彭城県綏輿里(現在の江蘇省徐州市銅山区)が本籍であるが、実質は南徐州晋陵郡丹徒県京口里(現在の江蘇省鎮江市丹徒区)。ほかの宋王朝と区別するために、劉裕の建てた宋は後世の史家により劉宋と称されている。東晋の武将として、桓玄を破って実権を握り、南燕・後秦を滅ぼし、恭帝の禅譲を受けて帝位についた。宋の基盤を確固たるものとしたが、即位後わずか3年で60歳で死去し、長子である劉義符が即位した。
劉寄奴草 中国の南部に分布するキク科ヨモギ属の多年草、アルテミシア・アノラマの開花期の全草を用いる。北部ではごまのゴマノハグサ科のヒキヨモギの果実をつけた全草を北劉奇奴といっている。四川省のキク科のタカヨモギも劉奇奴といっている。
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