1941年4月6日

1941年4月6日 昭和16年

【内 閣】

第2次近衞文麿内閣

総理 近衛文麿/外務 松岡洋右/内務 平沼騏一郎/大蔵 河田烈/陸軍 東條英機/海軍 及川古志郎/司法 柳川平助/文部 橋田邦彦/農林 石黒忠篤/商工 豊田貞次郎/逓信 村田省蔵/鉄道 小川郷太郎/拓務 秋田清/厚生 金光庸夫/国務 小倉正恒 鈴木貞一

内閣書記官長 富田健治/法制局長官 村瀬直養

企画院総裁 鈴木貞一/次長 小畑忠良

情報局総裁 伊藤述史/次長 久富達夫

【宮中主要官】

内大臣 木戸幸一/宮内大臣 牧野伸顕/枢密院議長 原嘉道/枢密院副議長 鈴木貫太郎

【軍部高官】

[陸 軍]

陸軍次官 阿南惟幾/軍務局長 武藤章/参謀総長 杉山元/参謀次長 塚田攻/教育総監 山田乙三

[海 軍]

海軍次官 豊田貞次郎/軍令部総長 伏見宮博恭

【植民地高官】

朝鮮総督 南次郎/台湾総督 小林躋造/関東長官 梅津美治郎/樺太庁長官 棟居俊一/南洋庁長官 近藤駿介

満鉄総裁 大村卓一

【東 京】

府知事 岡田周造/市長 大久保留次郎


イギリス軍がエチオピアの首都・アジスアベバを陥落し、イタリアの占領から解放。

ソ連・ユーゴスラビア友好不可侵条約調印(モスクワ)。

ドイツ軍など枢軸軍、ユーゴスラビアとギリシャに侵入開始。ベオグラード(ユーゴスラビア)を猛爆。


琵琶湖で練習中の旧制四高漕艇部員11人が突風により遭難。流行歌『琵琶湖哀歌』の題材となる。

 琵琶湖遭難事故:春休みを利用して滋賀県大津市に合宿していた金沢第四高等学校(現・金沢大学)の漕艇部員8名は、京都大学の学生ら3名を加えた合計11名で、高島郡今津町(現・高島市)の琵琶湖畔からボートに乗って午前7時頃出発した。しかし、午後6時になっても戻らなかったため、翌4月7日朝より大がかりな捜索が行われた。午前10時頃に定置網にかかったオールが、更に午後2時頃には漕艇部員の持ち物と思われる下駄が発見されるなど、11名の生存は絶望視された。その後も捜索は行われたが、11名全員の遺体が発見されるまで更に2ヶ月を要した。事故の原因は、春に起こる琵琶湖地方特有の突風比良八荒であると言われている。この事故は関西方面では大きく報道されたものの、それ以外ではあまり取り上げられなかった。しかし、犠牲となった四高の生徒らを悼む「琵琶湖哀歌」が東海林太郎と小笠原美都子によってレコード化されると、そのヒットと相まって全国的に知れ渡った。また、萩の浜の一角に四高の関係者と地元民の手で「四高桜」と銘した追悼の石碑が建てられた。この事故で犠牲になった11人の遺影は、金沢大学のボート庫に掲げられている。

過去の出来事

過去の本日の朝廷や江戸幕府の人事一覧、その他の出来事を紹介します。ほかに昔に関する雑記など。