斉諧俗談66
斉諧俗談 66
(承前)
五雑俎に言う、漢の竇公[とうこう]は、その年百八十歳、晋の趙逸(ちょういつ)は二百歳、洛陽の李元爽(りげんそう)は、その年百三十六歳であったという。また穣成[じょうせい]に二百四十歳の人がいて、米穀は食べず、曽孫の嫁の乳を飲んでいた。范明友(はんめいゆう)の率いた鮮卑奴[せんぴぬ]は二百六歳、梁の鄱陽[はんよう](はよう)の忠烈王の友の僧恵照は、元和(げんな)年間に至るもなお存命で、二百九十歳であったという。
按ずるに、五雑俎に言う、人の寿命が百歳を過ぎないのは、数が尽きるからである。百二十歳を過ぎても死なないのは、これを失帰の妖[しっきのよう]というと。
[語釈]
范明友 (? - 紀元前66年)前漢の隴西の人。大将軍霍光の娘婿。羌騎校尉(きょうきこうい)となって羌を率いて益州の反乱平定、武都氐の反乱平定などに参加した。
[解説]現代のようにいつ出生したか、明確に記録をとる方法がなかった昔は大雑把なもので、時代が遡るほどにあいまいになる。大昔ほど人の寿命が長かったわけではなく、むしろ短かった。中には長命な人もいたものの、そういう人ほどいつ生まれたのかを証明する人(親兄弟や出産に立ち会った人)がなく、身分が高い人だと記録をつけるが、庶民だとそういうこともないため、当人が親などから聞かされた誕生日を信じるしかない。
ここに列記されている人たちのうち、邦人の武内宿禰は実在が確認できない伝説の人であるし、五雑俎の中国の人たちは身分がいろいろですが、いずれも確証のない不確かな人ばかり。もちろん、無下に否定するのもまたそれだけの証拠がないので、ここは一つひとつを穿鑿するのではなく、稀に百歳をはるかに超える人がいるが、そういう人はあの世に帰る時期を失してしまった人、なにやら妖しい存在、ということでとらえるしかないといったことがこの段の趣旨しいえるでしょう。
0コメント