斉諧俗談61

斉諧俗談 61

〇瘖瘂[おし]

日本書紀に言う、垂仁天皇の皇子誉津別王(ほむつわけのみこと)は御年三十になられて、いまだ言葉をお話しなされない。十月八日、御殿の前を鵠[こく]という鳥が群がり鳴きながら空を渡るということがあった。皇子はこれを御覧あそばされて初めて話された。「これはいったいどういうことだ」そこで天湯河板挙[あまのゆかわのたな]に鳥を捕獲するようお命じなされた。板挙[たな]は遠くへ飛んで行く鵠を追い、出雲の国で捕獲、(翌年の)十月二日に鵠を献上した。皇子は鵠をとてもかわいがられ、ついに言葉を話されるようになられた。板挙は厚く賞され、鳥取造[とっとりのみやつこ]という姓を賜ったという。


[語釈]

誉津別王 『日本書紀』では誉津別命、『古事記』では本牟都和気命、本牟智和気命。『尾張国風土記』逸文では品津別皇子。垂仁天皇の第一皇子。母は皇后の狭穂姫命(さほひめのみこと。彦坐王の女)。誉津別皇子は父天皇に大変寵愛されたが、長じてひげが胸先に達しても言葉を発することがなく、特に『日本書紀』では赤子のように泣いてばかりであったが、鵠とたわむれるようになってからは言葉を発するようになり、これを機に鳥取部・鳥飼部・誉津部を設けたとされる。

鵠 くぐい。白鳥。

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