斉諧俗談47
斉諧俗談 47
〇名画精神[めいがのせいしん]
文徳天皇実録に言う、百済(くだら)の河成[かわなり]という者がいた。生まれつき武勇に優れ、特に強弓に秀でていた。一方、絵画の妙手でもあった。ある時、宮中で人を頼み、河成の従者を呼びにやるということがあった。ところが、その人は従者の顔を見たことがない。どのような人かと尋ねると、河成は即座に従者の顔を描いて渡してやった。この絵によってたちまち従者を見つけることができたという。また今昔物語に言う、百済の河成と飛騨の工(たくみ)は深い付き合いがあった。ある時、飛騨の工の邸内に小さい堂を建て、河成を呼んで見せた。その堂は四面に扉が設けてあった。河成は南の扉を開けて中へ入ると、たちまち扉が閉まり、押しても開かない。西の扉も同じで、閉まると開けることができない。しかし、東と北の扉は中から開けることができるが、外から入ることはできない。河成は笑って帰っていった。その後しばらく経ってから、河成が飛騨の工を呼んで自分の屋敷に招いた。童子が出迎えて中に入れる。飛騨が廊下を歩いていると、死人が倒れていた。そのさまは膨れただれて悪臭が鼻をつき、飛騨は前へ進むことができない。そこへ河成は大笑いしながら出てきて迎えた。その死体をよく見れば、それは絵であったという。(つづく)
[語釈]
百済の河成 くだら の かわなり、平安時代初期の貴族・画家。氏姓は余(あぐり。無姓)のち百済朝臣。百済の第28代国王である恵王の後裔で、余時善の子とする系図がある。官位は従五位下・安芸介。個人名の残っている最初の画家で、平安時代世俗画の出発点とされる人物。名人として伝説は多いが、絵画作品は残っていない。描いた肖像画は本人にそっくりで、山川草木は精妙でまるで生きているようであったという。
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