斉諧俗談44

斉諧俗談 44

〇蟹満寺[かにまでら]

山城の国相良郡[さがらごおり]綺田村[かわたむら]に、蟹満寺という寺がある。伝承に言う、昔、当国綺田[かわた]に一人の女がいた。その家では仏を信仰していた。ある日、この女が里へ出ると、里の人たちが池の蟹をたくさん捕っていたので、「なんのために蟹を捕るのですか」と尋ねると、「これを煮て食べるためだ」と里人が答えた。「我が家に味のよい脯魚[ひうお]がありますから、蟹と交換しませんか」と女が言ったので、里人たちは大喜びし、さっそく交換した。その後、女は蟹を大池へ放してやって帰宅した。翌日、女の父が野良仕事に出たところ、蛇が蟇[かえる]を呑み込もうとしていたので、「蛇よ、その蟇を放して帰るがよい。そうしたならば、わしの娘をお前にやろう」と言った。蛇は蟇を吐き出すと、そのまま去って行った。その夜、どの国の者とも知れぬ壮夫[おとこ]がやって来て門を叩き、「昼間の約束通り来た、ここを開けろ」と言った。父は驚き、「まだ娘には話しておらん。三日経ったら来てくれ」と言ったところ、壮夫に化けた蛇はそのまま去って行った。会話を聞いた女は驚く様子もなく、部屋にこもると仏前に向かって読経した。すると、かの蛇がやって来て尾で戸をぶち破り部屋に入ってきた。父母は泣き叫びながら駆け出し、里人にこの事を知らせた。里人たちがやって来て中を見ると、女は静かに座ったまま無事であった。一方、かの蛇はというと、数万の蟹が蛇の全身をはさみ、蛇は息絶えていた。人々は不思議なこともあるものだとここに寺を建立し、蟹満寺と名付けたという。近年、かの寺を修復した時、本尊の床下から、数万の蟹の殻と、蛇のうろこが出てきたということだ。


[語釈]

蟹満寺 かにまんじ。京都府木津川市山城町綺田(かばた)にある真言宗智山派の寺院。山号は普門山。本尊はかつては観音菩薩であったが現在は飛鳥時代後期(白鳳期)の銅造釈迦如来坐像(国宝)が本尊となっている。寺の所在地の地名綺田(かばた)は、古くは「カニハタ」「カムハタ」と読まれ、「蟹幡」「加波多」などと表記された。寺号についてもかつては加波多寺、紙幡寺などと表記されたものが蟹満寺と表記されるようになり、蟹の恩返しの伝説と結びつくようになったものである。この伝説が『今昔物語集』に収録されていることから、蟹満寺の寺号と蟹の報恩潭との結びつきは平安時代後期以前にさかのぼることがわかる。(以上、Wikipediaより。なお、底本では蟹満寺は「かにまでら」、綺田は「かわた」という振り仮名がついている)

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