政談458

【荻生徂徠『政談』】458

(承前) 総じて人は生まれながらにして得手不得手があり、学問は出来るが診療は得意ではないという人もいる。このような人を師範に命じ、学寮を立て、子どもに学問を教えさせ、大体の事を覚えた時点で田舎へ派遣して、そこで実際の診療を習わせたならば、いずれも御用に役立つ医師となるはずである。こういったことも幕府の支援がなければ、役に立たぬ者ばかりとなる。(この項以上)


[解説]学問ができて知識はあるが、腕のほうがあまりよくないという医師を幕府において教官として理論を教えさせ、実技は臨床実習させるのがよいとする。今では当たり前のことでも、当時においては、臨床実習といった観念がなく、知識さえあれば開業できた。なんともお粗末で、患者にとっては恐ろしいことである。

 田舎へ派遣するのがよいというのは徂徠の持論で、その理由は巻一に述べられている。要約すれば、江戸は生活する上でなにかとお金がかかるため、医者はたくさんの患者を診察し、短時間しか診察しないために病気や治療に対する腕が上がらない事、金が稼げる高官や裕福な家にばかり出入りするようになる事、薬によって副作用が起きないように弱い薬を出し、悪い評判が立たないようにして、長期化する患者にはほどよい所で断ってしまう事、以上により一人の患者、一つの病気を最初から最後までじっくり向き合わないために良い医者が育たない。田舎であれば生活費はあまりかからず、患者の数も少ないし、他の医者もいないことから、必然的に良医が育つということ。これはのちのインターン制度の理念と合致するものであり、医者になろうとする人にまずはじっくりと病に向き合い、医とはなにかを体得させること。生半可な知識だけで開業し、お腹が痛ければ腹痛の薬、頭が痛ければ頭痛薬、下痢なら止瀉薬、といったように、ただ薬を与えていいというほど簡単なことではない。なぜそのような症状になったのかを診察で確かめ、その症状はなにか別の病気によるものではないかどうかを見極めることが必要。今は検査によって原因の多くがわかるが、さりとていきなりあれこれ検査するというのも、患者にとって精神的な影響があるし、医者嫌いにもさせてしまう。検査にもいろいろあり、痛い検査、苦しい検査など、治療そのものよりも恐ろしいものもある。黙って座ればビタリと当たる、とは易者の宣伝文句だが、これは名医にも通じることとして言われた。患者の様子を見、直近までの状態、普段の様子を聞くことで、検査に頼らずともあらかたわかる、そういう医者のこと。今は終始パソコン画面に向かい、患者の様子をロクに見ずに決めてかかる医者がいる。私も数年前にそんな医者にかかってひどい目に遭ったことがあった。この医者は人嫌いではないかとさえ思ってしまう人もいる。診察、診療の「診」は患者の様子をじっくりみるという意味。医者の目で患者の顔色、表情、全身状態を見、手で脈を見ること。今はいろいろな器具ばかり使い、患者の体に触れることも少なくなったが、そのような指導はしていないはず。しているのであれば、それでいいのかと思ってしまう。文明は発達しても、人が人を診る根本は変わらないはずだから。

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