政談457

【荻生徂徠『政談』】457

 医者の事

 医者の子はおびただしいほどいるが、二代目よりあとはおよそ役に立つ者は少なく、家の資産を食い潰すものである。医者である親は診療に忙しく、子を教え立派にさせる暇がない。小身ゆえに学問をさせれば使用人を雇う余裕がなくなる。このために子の教育が疎かになり、無学となる。人に頼んで診療を習わせるしかないが、腕のよい人でも無学だと、肝心の時は誤診をするものである。


[解説]江戸時代、医者になるには今のような専門教育や資格試験、研修はなく、免許もなかった。誰でも届け出さえすれば開業できた。もともと医といえば漢方で、体を切るといった施術がなく、刺すといっても鍼灸だけだったから、高度な知識と腕が必要というものではなかった。薬の知識は必要で、匙加減という言葉もあるように、調合には細心の注意が必要。しかし、この程度だったこと、医者になるものは医者の子が多く、医もまた家業と化していたから、わざわざ免許制にするにも及ぶまいということだったようだ。それ以上に、「あの医者はダメだ」「あの先生は面倒見がいいし、腕も確かだ」という評判がかけめぐるため、悪評の立つ医院には誰も行かなくなるのは当然で、こういう評判=評価が悪医者を淘汰させることになった。とはいえ、持病がある人以外は医者にはたまにしかかからないし、幸いなことに全くかからずに済む人もいる。こういう人が風邪や頭痛などでたまたま近くの医者にかかり、薬をもらってそれで治れば、「あの医者はいい医者だ」と思ってしまう。実は、その医者はひどい医者で評判もよくないのに、たまたまかかった人は逆の評価を吹聴する。このため、粗雑な医者も一定数は生き残る。更に、医者として人格者ではあるものの、適切な処置方法がわからず、漠然と旧来の方法を続けていると、「肝心の時は誤診を」してしまうことになる。

 徂徠は、免許制度にまで考えは及ばなかったものの、儒者と同じく、医師もまた基礎となる学問の必要性を説き、家業による世襲はまったく意味をなさず、せめて父が多忙な状態から解放されないかぎりは何も解決しないことを述べる。

 なお、当時は儒者にして医者という人も少なくなかった。漢方の書物はもちろん漢文であり、しかも一般の詩文よりも難しいために、研究者のような専門の儒者でなければ読解できなかった。そのため、その知識を生かして副業的に開業したり、幕府や藩、あるいは民間の要請で医書の読解をするといったことが多く行われ、儒者が医書も執筆したケースも多く見られる。

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