近世と現代の文字環境、立ち位置の違いについて
近世と現代の文字環境、立ち位置の違いについて
東隅書生
書体ヒエラルキーが近世人の意識の中に存在することについて何度が『東隅随筆』中でも言及しているが、これついては書体と限定して発言すると、「篆→隷→楷→行→草」の順のみを言うようにも見える。しかし、書物の上では書体差のみならず字の大きさの使用差も意識されている。これは現代でも見出し字が大きく作られ、次に小見出し、そして本文に使われる文字差までは指さないが、文字サイズの利用場面にも差異が見られ、意識されているのは確かである。だがそれは近世的な毛筆利用の筆記環境に限らずにあるというところから、また別な意識下の使用として、活字やフォントにも共通する文字利用上のヒエラルキーとも見える。
表題、副題、標準の本文といった文字の扱い差はPC中のワープロソフトにも反映している。これは文字の遣い方意識が連綿と継承されているとも考えられる。そこと毛筆事情との一線をどこに引くのか。継承か断絶かを見極めていく必要があるだろう。単に形象的な文字差ではあるが背景にある精神的意識がそこに見えるとするならば、観察を怠る事はできないし、見過ごしがちな部分であればこそ、より注意深く文字の姿の有り様を考えておく必要があるものと考える。文字へのこだわりは、文字によって知的成果物が記録され継承されるからであり、必ず何らかの当時の価値観が反映しているはずである。そこを読んでの「読み」なのだと思われるからである。
昨今はネット環境の普及から、紙に印刷される新聞を読む家庭も減ったのだという。新しいニュースはテレビとwebからという事らしい。さて、そんな新聞紙面を少し思い出して欲しい。基本は縦書きで十数段に区切られているが、大きな見出しが縦や横に渡っている。途中に小さな見出しも立てられていて、そこには本文が明朝体であるのに対して見出しはゴシックで刷られていたり、大見出しは文字が白抜きになっていたりと変化に満ちている。目を惹くように工夫した結果なのだろう。
さて江戸記の碑においては碑額や篆額、それが本であれば書名などといった部分は昔から目立つように大きく書いていた。そんな意識と新聞紙面の紙面文字の構造は類似した感覚で作られていると言えそうな気がする。新聞というメディアそのものの歴史は近代化の中に発したものであり、近世の碑や本に対しては後発の新しいものだが、新聞は活字こそ使っているが文字によって示されている点では、近世木版印刷の場合とさほど変わらぬ印刷に思うだろう。と、いうところが現代的感覚であるのだろう。
近世の文字を見てもそれを頭の中で活字に置き換えるような感覚で文字を追ってはいないか。或る意味当然といえばそのとおりのことで、現代人の識字は活字教科書(あるいは絵本や他の活字教材で習った場合もあろう)で行われている。漢字の書き取りも手本は活字で、鉛筆(硬筆筆記具)で書き取りをドリルで勉強したかもしれない。活字が文字の手本であるとして育った世代には文字は活字なのである。最近の子どもたちの場合は「文字は電子フォント」になりつつあろうか。同断で近世人にとっては「文字は毛筆文字」であったといえる。
この識字環境の差は文字感覚に対して歴然とした差異を齎すのだろうと想像している。そして近世人たちは活字を知らない。電子フォント由来の文字印刷も知らない。想像もできない時代に生きていたはずである。知らない文字と自分たちの文字とを比較して考えることもできなかった。文字の範疇にそんなものはなかったのである。そんな文字を知っている現代人であればこそ近世の毛筆由来の文字を毛筆に由来していると知り、かつ意識して、現在自分たちが使う毛筆由来ではない文字と比較して文字について考えることができるのである。つまり近世の毛筆由来の文字について考えることは極めて現代的視座によって眺めた結果であるという自覚を持ちつつ、近世の文字を読みかつ見る必要がある。
近世人たちとは文字環境については別な立ち位置に現代人はいるのだ。いかに近世の文字の間に身を置いたとしても、現代人としての文字経験を識字段階で体験してきてしまっている以上近世人にはなれないのである。ただその自覚に基づいて近世の文字資料に対峙することによって、近世人的文字への価値観に近づける期待はできるのではなかろうか。ただ、日常に活字を利用している自分がいることを忘れずに、立ち位置を見失わず、毛筆文字の時代に近づければと願うのである。(『東隅随筆』567号より許可を得て転載、)
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