政談452
【荻生徂徠『政談』】452
●儒者の事
幕府に仕えている儒者たちは心得違いをしているため、学問研鑚を怠り、御用の役に立たぬ者が多い。以前、林内記信篤の父の春斎に人見友元(ひとみゆうげん)が意見をしたことがあった。「林家(りんけ=幕府儒官)の学者は経学に疎く、いずれも講釈が下手である。気をつけられよ」と。春斎は激怒し、「我が家は道春(どうしゅん)以来幕府の御用を第一とし、弟子たちにも広く学問をさせて、山崎闇斎(あんさい)のような講釈専門とはしない家風である。その方の意見のようにすれば、我が家の学問はやがて廃れてしまうだろう」と言った。
[語釈]●林内記信篤 1644-1732。林家第三代の儒官として大学頭(だいがくのかみ。文部大臣と東大学長を兼ねたに等しいほど力があった)を務めた。本書が記された頃、大内記となった。号は鳳岡(ほうこう)。なお、赤穂浪士討ち入りに対しては武士の鑑として称え、法を破った罪人であるとした徂徠とは対立関係にあった。 ●春斎 林春勝。1618-80。林家二代目。号は鵞峯(がほう)。 ●人見友元 人見宜郷(よしたか)。1637-96。幕府の儒官。京都出身。人見卜幽軒(ぼくゆうけん)の甥(おい)。林鵞峰に学ぶ。「本朝通鑑(つがん)」の延喜(えんぎ)以降の編修に参加した。 ●道春 林羅山(はやし らざん)1583-1657。江戸時代初期の朱子学派儒学者。 林家の祖。 羅山は号で、諱は信勝(のぶかつ)。 字は子信(ししん)。羅山の訓読を道春点という。ちなみに、現在行われている漢文訓読は道春のあとの後藤点。羅山は林家の祖で家康に見出だされて幕府に仕えた。大変な読書家だった。なお、羅山は大学頭には任じられていない。 ●山崎闇斎 1618-1682。江戸前期の儒学者・神道家。名は嘉、通称は嘉右衛門。別号、垂加(しでます)。京都の人。初め僧になったが、朱子学に転向、朱子の本義の純化と敬義の実践を重んずる厳格主義的朱子学を主唱した。後年、吉川惟足の伝授を受けて神儒を結合、垂加神道(すいかしんとう)を興した。性格は峻厳酷薄にして情味に乏しく、一方的な講義は恐ろしくて弟子たちは身じろぎもできなかったという。
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