政談449

【荻生徂徠『政談』】449

(承前) 詩などは無益であるなどと朱子学者が言い、私のような素人はなるほどと思うものの、どのような文字にするか悩まなければ詩は作ることができない。文字を知り、文字に悩むようになって、おのずから経書(けいしょ)も歴史も理解できるようになる。このため我が国では昔、四道の儒者の博士を立てた際に、詩文章の学問を経学より上に置いたのである。綱吉公は学問をとてもお好みあそばされ、これによって世間でも学問が盛んとなった。しかし、経書の講釈がほとんどで詩文章はなおざりにされたために、文字で苦労することがなく、何の益もなかった。これ以降、幕府の儒官はみな不学となってしまった。今、詩の御会をお開きになられたならば、綱吉公の御講釈よりはるかに勝ることであろう。


[語釈]●四道 律令制で、大学寮に設置された四つの学科。紀伝道・明経(みょうぎょう)道・明法(みょうぼう)道・算道。職原鈔(1340)上に「大学寮者、四道儒士出身之処、和漢最為重職、紀伝・明経・明法・算道、謂之四道」とある。


[解説]徂徠は「私のような素人」と謙遜しているが、もともと当時としてはごく普通の道として朱子学を修め、ひとかどの儒学者となった。しかし、やがて朱子学に疑問を感じて「憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と喝破、朱子学に立脚した古典解釈を批判し、古代中国の古典を読み解く方法論としての古文辞学(蘐園(けんえん)学派)を確立した。つまり、当時の儒学はおもに南宋の学者・朱子らの解釈によって経書を理解し、考究していたが、古典はあくまで直接原典にあたり、当時の言葉の意味(古文辞)のまま理解しなければならないとして朱子学を激しく批判し、新たな学派を開いた。徂徠は中国語が出来、そのため漢文を訓読によらずそのまま上から下へ読むことができたし(独学)、地位と財力の上にあぐらをかいて道楽のように学問をやり、学者面していた儒官と違い、貧しい境遇の中で学問を身に着けただけに、強い自負心があった。本場中国の儒者たちの多くは本業が政治家であり、その上で学者にして詩や文章も作れる情操豊かな人だった。徂徠もまた盛んに詩文をものしただけに、我こそは本物の儒者という誇りがあった。身分上、政治家にはなれないものの、政治について将軍に進言できる立場にあったことも強みであった。これらを踏まえた上で朱子学者に対して「私は素人」と言うのだから、強烈な嫌味である。さらに、自分を取り立ててくれた将軍綱吉についても、経書の講義ばかりで詩文を作らなかった、そのために世の中に学問の気風は広まったものの、経書について深く考究するといったことがなく、ただ論語のこの部分はどの学者はこう言っている、この学者はこう読んでいる、と諸説を挙げて、自分はこの解釈を是(ぜ)とす、非とするといった程度で、全然深く考えようとしなかった、これでは学問としてなんの益もないとまで言い切った。将軍批判を別の将軍に対してするというのは、筆頭老中でさえ許されないことだが、吉宗は「無礼者」と怒ることもなく、むしろ学問のあるべき姿勢というものをよく理解して、さまざまな学問を解禁、奨励した。ただ、吉宗と徂徠亡き後、清廉すぎて堅物だった松平定信により朱子学だけを正学として朱子学者が復権、逆に徂徠学派らが異学として圧迫されてしまうことに(寛政異学の禁)。

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