1941年1月8日
1941年1月8日 昭和16年
【内 閣】
第2次近衞文麿内閣
総理 近衛文麿/外務 松岡洋右/内務 平沼騏一郎/大蔵 河田烈/陸軍 東條英機/海軍 及川古志郎/司法 柳川平助/文部 橋田邦彦/農林 石黒忠篤/商工 小林一三/逓信 村田省蔵/鉄道 小川郷太郎/拓務 秋田清/厚生 金光庸夫/国務 星野直樹
企画院総裁 星野直樹/次長 小畑忠良
内閣書記官長 富田健治
法制局長官 村瀬直養
【宮中主要官】
内大臣 木戸幸一/宮内大臣 牧野伸顕/枢密院議長 原嘉道/枢密院副議長 鈴木貫太郎
【軍部高官】
[陸 軍]
陸軍次官 阿南惟幾/軍務局長 武藤章/参謀総長 杉山元/参謀次長 塚田攻/教育総監 山田乙三
[海 軍]
海軍次官 豊田貞次郎/軍令部総長 伏見宮博恭
【植民地高官】
朝鮮総督 南次郎/台湾総督 小林躋造/関東長官 梅津美治郎/樺太庁長官 棟居俊一/南洋庁長官 近藤駿介
【東 京】
府知事 岡田周造/市長 大久保留次郎
東條英機陸相が軍の行動規範「戦陣訓」を陸軍将兵に示達。
日中戦争の長期化で、軍紀が動揺し始めた昭和16年(1941)1月8日、東条英機陸相が「軍人勅諭」の実践を目的に公布した具体的な行動規範。 第八名を惜しむの「生きて虜囚の辱を受けず」の部分が明確に降伏を否定しているため、これによって多くの兵士が無駄死にしたとされる。
陸軍省が制定し、1941年(昭和16年)1月7日に上奏、翌8日の陸軍始の観兵式において陸訓第一号として全軍に示達した。同日に新聞などのメディアはこれを大きく報じた。読売新聞は「昭和の軍人魂昂揚『戦陣訓』を制定す―けふ全将兵に配布―」と題する記事で「世界動乱に対応し最精強の皇軍錬成を目ざす陸軍では皇軍兵士が座右において実践服行するいはゆる昭和武人鑑ともいふべき「戦陣訓」を新たに制定、七日午後上奏御裁可を経たので八日の陸軍始観兵式の佳日を下し東條陸相の名において全軍に示達、各兵士に一葉宛を配布(後略)」と報道し、『戦陣訓』の全文も掲載した。また、15日付けの週報(内閣情報局編集)では、「国民の心とすべき」と民間人にも実践を求めている。軍人への浸透のため、陸軍省は『軍隊手牒』と同サイズの『戦陣訓』を作製した。翌1942年の版からは軍隊手牒に印刷することとした。また別に『戦陣訓解釈』(1942年)も発行している。当時は軍人や官僚が書籍を出版し印税という形式で賄賂を送り(あるいは媚びを売り)、他の出版物の出版許可を得る風潮があったが、『戦陣訓』の印税受領は不明である。
構 成
「戦陣訓」は「序」と「本訓」「結」から成っており、「本訓」はさらに「其の一」から「其の三」までに分かれている。
序
本訓(其の一) 第一「皇国」
第二「皇軍」
第三「皇紀」
第四「団結」
第五「協同」
第六「攻撃精神」
第七「必勝の精神」
本訓(其の二) 第一「敬神」
第二「孝道」
第三「敬礼挙措」
第四「戦友道」
第五「率先躬行」
第六「責任」
第七「生死観」
第八「名を惜しむ」
第九「質実剛健」
第十「清廉潔白」
本訓(其の三) 第一「戦陣の戒」
第二「戦陣の嗜」
結
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