政談447
【荻生徂徠『政談』】447
(承前) 総じて日記などを仮名で書くため、先例を調べようとする時、過去の日記類は漢文体が多いために読めぬ人にとっては急用には役に立たない。そこで経験した人のもとへ聞きに行くのが風潮のようになっている。日記を漢文で記すと、第一に字数が短くて済み、その上漢字は文字が識別しやすく、分量の多い日記でも探すのが容易で便利である。裁判でも今は律の用語を使わないために明確な罪名がつけられず、判断に誤りがあることも見受けられる。されば、漢文を習得することは学問のためだけではなく、実務にも大いに益がある。学問をしなければ公務に差し支えが生じるようにすれば、上様の御催促がなくともおのずからするようになるものである。
[解説]最近はあまりやられていないようだが、言葉の識別についての調査研究というのが以前は活発で、たとえば危険を知らせる標識として、「あぶない」とか「キケン」と表記した場合、それを読んで認識するために時間がかかるのに対し、「危」という漢字一文字だと、見てすぐにわかる。もちろん、これは識字率が極めて高いという前提であり、読めない場合は文字による表記は意味をなさないが、たとえば可燃性の高い、あるいは毒性の強いものを運搬する車両に「危」の一文字で警告することが義務付けられているように、漢字一文字の有効性は公的にも認められている。表意文字の強みであり、徂徠が言わんとしているのもこの利便性である。
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