政談446

【荻生徂徠『政談』】446

(承前) 古は律令制の定めにより式部省の試験に及第しなければ官吏になれぬようにしたため、おのずから武家も学問をするようになったもののようである。源頼義と大江匡房との往復書簡が『本朝文粋(ほんちょうもんずい)』にあり、頼義奥州討伐の時の上表のことなどが見えている。また源義家が丹波掾(たんばのじょう)の時の新田開発の下文(くだしぶみ)を先年見たが、なかなかよく出来た文章である。今は学問がなくとも御奉公に差し支えがないことから、気の詰まるような学問をしないのも当然である。今も書札の式法を定めて、『庭訓(ていきん)』程度の文ぐらい書けて、御役替・御加増の節に綸旨(りんじ)・位記などにちょっとした書き物を添えられ、その文言は学問のない人には読めないようにし、または政務などの留帳を漢文で記し、または裁判記録に律の用語を使うといったことをすれば、必然的に学問をしなければならなくなる。


[語釈]●源頼義 みなもとのよりよし、平安時代中期の武士。河内源氏初代棟梁・源頼信の嫡男で河内源氏2代目棟梁。頼信の嫡男として河内国古市郡壺井村(現・大阪府羽曳野市壺井)の香炉峰の館に生まれる。弓の達人として若い頃から武勇の誉れ高く、今昔物語集などにその武勇譚が記載される。父・頼信もその武勇を高く評価したといわれ、関白・藤原頼通に対して長男・頼義を武者として、次男・頼清を蔵人としてそれぞれ推挙したという(『中外抄』)。 ●大江匡房 おおえ のまさふさは、平安時代後期の公卿、儒学者、歌人。大学頭・大江成衡の子。官位は正二位・権中納言。江帥(ごうのそつ)と号す。藤原伊房・藤原為房とともに白河朝の「三房」と称された。小倉百人一首では前中納言匡房。兵法にも優れ、前九年の役の後、源義家は匡房の弟子となり兵法を学び、後三年の役の実戦で用い成功を収めた。 ●本朝文粋 ほんちょうもんずい、は平安時代中期の漢詩文集。14巻。藤原明衡撰。平安時代初期から中期の漢詩文427編を分類し収める。主な作者は、大江匡衡・大江朝綱・菅原文時・紀長谷雄・菅原道真・源順・大江以言・兼明親王・都良香・紀斉名など。多くは四六駢儷文(しろくべんれいぶん)であり、また日本初の文使用編纂書で公文書が多数含まれている事から、故実典例として参考にされたが、江戸時代に至り駢儷文が否定されるようになると省みられなくなった。 ●下文 上意下達を目的として平安時代中期以後に上位の機関(官司とは限らない)から下位の機関もしくは個人にあてて出された命令文書のこと。 ●庭訓 庭訓往来(ていきんおうらい)のこと。往来物(往復の手紙)の形式をとる、寺子屋で習字や読本として使用された初級の教科書の一つ。南北朝時代末期から室町時代前期の成立とされる。著者は南北朝時代の僧玄恵とされるが、確証に乏しい。擬漢文体で書かれ、衣食住、職業、領国経営、建築、司法、職分、仏教、武具、教養、療養など、多岐にわたる一般常識を内容とする。1年12ヶ月の往信返信各12通と8月13日の1通を加えた25通からなり、多くの単語と文例が学べるよう工夫されている。写本や注釈本、絵入り本が多く存在する。時代を超えて普遍的な社会常識も多く扱ったために江戸時代に入っても寺子屋などの教科書として用いられた。古写本で30種、板本で200種に達する。庭訓とは、『論語』季子篇の中にある孔子が庭を走る息子を呼び止め詩や礼を学ぶよう諭したという故事に因み、父から子への教訓や家庭教育を意味する。

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